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写真家|鄧南光

  • 日付:2025-01-08
写真家-鄧南光

鄧南光、本名・鄧騰煇は1907年、新竹県北埔の客家の名家に生まれ、17歳から日本で高校、大学の教育を受けました。法政大学経済学科で学んでいる時にカメラ部に入り、写真撮影に魅了されました。写真雑誌「カメラ」に初めて投稿した作品が入選し、カメラに対する熱は一層高まりました。ライカで撮影した作品は、第1回上海国際写真展でも入選しています。鄧騰煇が取り上げるテーマは多彩で、参加したコンクールではたびたび受賞。全日本ライカ協会、全関東学生写真連盟の会員にもなりました。

 

鄧騰煇は当時の日本のカメラブームの影響を受けました。その美学とスタイルはスナップショットやスケッチ、モンタージュ、ソラリゼーション、潜在意識といった芸術概念を強調したもので、保守的、伝統的な撮影への反動でした。日本に身を置く鄧騰煇は特にドイツのパウル・ヴォルフ(Paul Wolff)と日本の木村伊兵衛という2人の写真家の作品やコンセプトから最も影響を受けました。

 

1935年、学位を取得して台湾に戻った鄧騰煇は、台北にカメラ店「南光写真機店」を開業しました。その店名から、仲間は鄧騰煇のことを「南光さん」と呼び、鄧騰煇もその後、自ら「鄧南光」と名乗るようになりました。1935年から1944年にかけてが鄧南光の撮影のピークとなります。鄧南光は台湾各地を巡り、庶民の様子や都市の生活、女性たち、中産階級などを、写実的な撮影美学で写し出しました。中でも、台湾北部の各地の民俗風景に関心を寄せました。

 

1937年ごろ、鄧南光は8ミリにも興味を持ち、数十本の作品を撮影。このうち、子どもたちを主人公とした「漁遊」「動物園」は第3回全日本8ミリ映画コンテストで佳作を受賞しています。鄧南光は1944年、「台湾総督府登録写真家」となります。第2次世界大戦中の台湾では、登録写真家でなければ公の場で合法的に写真撮影ができませんでした。戦火が日増しに激しくなる中、鄧南光は台北の店を畳み、故郷の北埔に帰ります。

 

1945年の第2次世界大戦終結後、鄧南光は台北の衡陽路で再び「南光写真機材店」を開業。さまざまな撮影活動にも参加し、趣味としての写真を広め、李火増らライカカメラの愛好家と倶楽部をつくり、戦後の台湾で最も早期につくられたカメラ同好会の一つとなりました。

 

鄧南光は、台湾の日本統治時代、第2次世界大戦、戦後の光復時期(日本の統治が終わり、中華民国の統治下に入ったこと)にわたり、カメラで自らの生命史を写し出しました。その作品は大きく変わる時代における生活の実像を写し、さまざまな産業の社会的風景を描き出し、台湾の写真発展史の重要な部分をとどめています。鄧南光は台湾の写実主義写真を切り開いた代表的な人物で、その一生で数多くの作品と芸術的成果を積み重ねてきました。また、台湾の初期のカメラブームをけん引し、台湾の写真芸術の発展に多大な影響を与えました。

 

鄧南光の作品は以下のサイトでご覧いただけます。https://cyberisland.teldap.tw/graphyer/photo/zsTc

 


(写真: 艋舺龍山寺鄧南光身影 / 創作者:鄧南光 / 貢獻者:提供者-夏綠原國際有限公司 / 數位物件授權:CC BY-NC 3.0 TW + / 建檔單位:財團法人台北市艋舺龍山寺 @ 國家文化記憶庫 https://tcmb.culture.tw/zh-tw/detail?indexCode=Culture_Object&id=327307)