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建築家 | 高而潘

  • 日付:2025-04-07
高而潘

日本統治時代から「中華民国への復帰」という時期の台湾で、日本語と中国語の教育を受けた高而潘は、台湾の戦後第1世代の建築家です。建築という専門分野から国家建設の推進に協力し、社会の変化を考え、また、美しさと実用性を追求しました。業界団体と体制改革においては、建築業界の専門家らと団結して住環境と公共の安全性を高め、さらには、建築の専門教育に携わり、後進の育成に力を尽くした台湾の現代建築発展の重要人物でもあります。

 

高而潘は1928年、台北大稲埕の名家に生まれました。1951年に台湾省立工学院(現在の国立成功大学)建築学科を卒業。基泰工程司(Kwan, Chu and Yang Architects)に入り、チーフアーキテクトである関頌声(Kwan Sung-sing)の支援を受けて、1960年に東京で開催された世界デザイン会議に参加しました。また、建築音響工学の先駆者である建築家の佐藤武夫の設計事務所、日本の近代建築の旗手といわれる前川国男の建築事務所にそれぞれ2カ月滞在しました。台湾で建築の高等教育を受けた高而潘は、日本の建築文化を自身の設計に融合したほか、20世紀の近代建築の巨匠であるル・コルビュジエの影響も大きく受けており、ル・コルビュジエを精神的な師と仰ぎました。

 

高而潘は39歳の時、基泰工程司を離れて独立し、自身の事務所を設立しました。高而潘の代表作には、胡適墓園、台北市立美術館、中華テレビビル(華視大楼)があります。胡適墓園のデザインはシンプルで明るく、墓所は薄暗いという台湾人の思うイメージを覆しました。また、1980年代に完成した台北市立美術館は、メタボリズム建築の空間が成長するというコンセプトによるもので、台湾の現代建築のマイルストーンとなりました。1983年に落成した中華テレビビルは、台湾で最も早期に容積率という概念の下完成されたビル。低層部と地下の公共スペースは市民に開放され、斬新なものでした。

 

台北龍山寺の副董事長だった高而潘は、龍山寺の地下トイレと禅房も設計しています。1990年代、龍山寺は参拝者が非常に多かったものの、土地には限りがあったため、トイレ問題が解決できずにいました。そこで高而潘は、地下室にトイレを設置するという方法でこの問題を解決し、地上の建築物も縮小したことで、古跡である龍山寺への影響を低減しました。

 

高而潘は1960~90年代の建築家キャリアにおいて、さまざまなタイプの作品を設計し、時間の経過に伴ってそれらはより洗練されていきました。この30年間は台湾の政治、経済、社会で大きな変化が起こった分水嶺(れい)の時期であり、高而潘の作品は現代建築の台湾における実践の証しと言えます。