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楽生療養院

楽生療養院

基本説明 

住所
33351 桃園市亀山区万寿路1段50巷2号(新エリア)
24257 新北市新荘区中正路794号 (旧エリア)


環境紹介

楽生療養院は台湾北部、新北市新荘区と桃園市亀山区迴龍里にまたがるエリアにあります。敷地面積は約30ヘクタールで、2つのエリアに分かれています。楽生療養院(旧エリア)は、MRT新荘線の迴龍駅付近にあり、平屋建ての建物は入所者のためのものです。一方、迴龍(新エリア)は桃園市に位置し、近代的な8階建ての高層病棟2棟からなります。このうち1棟はハンセン病患者の診察、入所者の生活・居住空間として使われています。楽生療養院は、日本統治時代の1930年、「台湾総督府癩病療養楽生院」として設立されました。ハンセン病の患者を強制的に収容するための施設であり、台湾で初となる公立のハンセン病の予防・治療と患者の隔離を行う施設でした。創設当時、住宅はわずか3棟、収容患者は100人ほどでしたが、その後、日本政府が強制隔離政策を行い、戦後台湾を接収した国民政府も、強制隔離政策を継続させたため、院内の療養施設は60棟余り、病床数は1000近くに達しました。


80年余り前に楽生療養院が設立された当初、付近に人はほとんど住んでいませんでした。これは当時、強制隔離こそがハンセン病の最も効果的な治療法であると国際的に考えられていたことが一番の理由です。また、患者が人々の奇異の目にさらされることなく、安心して暮らせるようにしようとするねらいもありました。楽生療養院は、当時の世界的な療養制度によって規則が決められたほか、各施設も病院、療養所、コミュニティーの機能を兼ね備え、患者の衣食住と教育、娯楽のニーズを満たすように設計されました。事務棟、居住空間、生活施設から、下水道、浄水システム、電力設備といったインフラ、さらにグラウンド、ランドリー、協同組合、理容室、食堂、患者の子女を預かる保育所、児童療養所、講堂、図書館、れんが工場、宗教施設なども建てられ、小さなコミュニティーを形成していました。


その後、ハンセン病の特効薬が開発されたこと、医療の進歩、情報網の発達により、ハンセン病が謎の病気、脅威とされた時代は終わりを迎えました。楽生院は施設の耐用年数を迎えていること、また発展の著しい大台北都会区(台湾北部の台北市、新北市、基隆市を含む「首都圏」を指す)にある、恵まれた立地条件などから、政府関連部署は未来のあり方について検討するようになりました。閉鎖移転、都市再開発、公共交通機関の整備、医療資源などいくつもの議題がある中で、政府は、MRTの新線建設計画と、楽生院の改築工事を同時に進行する折衷案に決定しました。これは、入所者の療養所とコミュニティーの医療施設を含む高層病棟の新築、新荘線迴龍駅と車両基地の建設というものです。MRT新荘線の建設工事は2002年に開始された後、高層病棟は2005年に竣工、入所者が続々と入居しました。しかし、一部の入所者がその処置について不安を感じたほか、楽生療養院を文化遺産として保存することを求める声も広がりました。そのため、行政院公共工程委員会は、2007年5月30日に関連部署を招集し、「MRT新荘車両基地、楽生療養院保存方案」検討会議を行いました。この中で楽生院療養院エリア(旧エリア)の保存に関する原則を決めました。この原則とは、39棟の建物はそのまま保存し、6棟は解体、9棟は全体整備計画の対象として再建するというものでした。また政府は、心身の痛みを味わったハンセン病の患者を慰め、補償を行うとともに、その治療、ケアに関する権益を保障するため、2008年8月13日、「ハンセン病患者人権保障及び補償条例」を公布、実施しました。


2010年12月末時点で、楽生療養院の入所者は225名おり、このうち129名が高層の療養病棟で、37名が平屋建ての施設で、31名が山地エリア(旧エリア)内で暮らしています。楽生療養院は2009年9月7日、新北市政府によって文化景観と歴史建築に登録されたほか、文化部(当時は行政院文化建設委員会)により、「台湾の潜在的な世界遺産」の一つに選ばれました。


選出理由 

楽生療養院の建物は日本統治時代と戦後の国民政府時代の建築の特色があり、医療施設と隔離空間という機能を持ち合わせています。衛生設備の計画、強制隔離に即したその配置は非常に特殊で象徴的な意義を持ち、公共衛生、歴史、建築、環境計画、人類学など各分野の学者から、研究対象として強い関心を集めています。院内の治療スペースと生活空間の配置と機能的な建築、社会復帰のための施設は、ハンセン病医療と公衆衛生発展の歴史を体現しており、ハンセン病療養所の隔離という特殊性と、歴史的意義を持っています。また、かつてハンセン病患者が社会的に弱い立場におかれていたことが示されており、世界遺産登録基準第2項に合致しています。
時代の変遷と経済の発展により、楽生療養院周囲の環境、自然景観も次第に変化し、入所者の生活の場も変わり続けています。過去から現代へと時代が移り変わる中、かつての「閉鎖、隔離」は、「開放、抗争」へと変化、楽生院の役割も、ハンセン病患者の強制収容施設から、患者のための療養所と地域医療機関へと変わってきました。これは、楽生院が「不可変と不可逆」の条件下、環境と互いに影響し合いながら、社会の変遷に適応した重要な証拠であり、世界遺産登録基準第5項に合致しています。