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ライチ園に埋められずに保管されていた「呂赫若日記」、台湾文学館に寄贈

  • 日付:2020-08-25
ライチ園に埋められずに保管されていた「呂赫若日記」、台湾文学館に寄贈

日本統治時代に作家デビューし、戦後に反政府活動家となった呂赫若の生誕106年となる8月25日、現存する唯一の手書き原稿「呂赫若日記」が、遺族によって国立台湾文学館(台南市)に寄贈されました。寄贈式に出席した李永得文化部長(文化相)は、約70年間原稿を保管し続けた家族に敬意を表すとともに、台湾の文学界にとって非常に貴重な文物が提供されたと感謝しました。

呂赫若日記は、戦前の1942~44年にかけて日本語で記されました。51年の死後、遺族は政府が当時反体制派に行っていた政治的弾圧「白色テロ」を背景に、呂の遺物によって二次被害を受けることを心配し、大部分の直筆原稿や書籍などを実家のライチ園に埋めました。ですがこの日記は、子どもらの生年月日が記されていたという理由で、大事に保管され続けてきました。次男の呂芳雄さんは、寄贈の決断について、「父は、正しいことをしたと喜んでくれているだろう」と語り、呂の精神が代々受け継がれていくことを願いました。

国家図書館や台中文学館(台中市)などの資料によれば、呂は1914年8月25日、中部・台中で生まれました。35年、文芸誌「文学評論」で短編小説「牛車」を発表。39年には東京に留学して声楽を学び、42年に台湾に戻った後は、文芸誌の編集者や声楽家、劇作家、教師などとして活躍しました。その多才ぶりから「台湾第一才子」(台湾きっての才子)と呼ばれました。左翼思想の影響を強く受けており、作品には下層階級や封建社会に生きる女性を描いたものが多くあります。

戦後、国民党政権による統治が始まると、腐敗した政治に不満を抱いて共産主義に傾倒。中国共産党地下組織の機関紙「光明報」の編集などに携わり、私財を投じて政治宣伝ビラの印刷などを行いました。しかし、49年に戒厳令が敷かれ、同紙の創刊者は逮捕されてしまいます。呂は同志が集まる台北県石碇郷(現新北市石碇区)の拠点に身を隠しましたが、51年、逃亡先で不慮の死を遂げました。

90年代後半には呂の日本語作品を翻訳するプロジェクトが立ち上がり、日記の直筆原稿の複製と中国語翻訳版を合わせた2冊組書籍が2004年、台湾文学館から出版されています。