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油彩画家| 陳澄波

  • 日付:2020-06-11
油彩画家| 陳澄波

油彩の化身―先達画家の陳澄波は、自身の土地に対する思いと愛情をさまざまな創作媒体により表現し、その作品の緻密な構成、純真実直な線、自由闊達な色彩からは、彼の世界や土地に対するあふれる思いが表れており、観る者にも熱い感情が伝わります。


陳澄波(1895~1947年)は台湾・嘉義生まれ。1924年3月に東京美術学校図画師範科に入学し、3年(1926年)のとき、油彩「嘉義街外(一)」が、台湾人画家として初めて帝国美術院展覧会(帝展)に入選しました。


1929年に卒業してからは、上海で教職に就き、中華民国の第1回全国美術展覧会で審査員を務めました。芸術界の人々と親しく交流したほか、自らの創作では、「中西融和」の画法と「前衛思想」の探求を含め、極めて実験的な試みを多数展開しました。陳澄波はこの時期、中国画への理解を深め、特に倪雲林と八大山人の作品を好みました。


1933年、陳澄波は一家で台湾に戻ります。陳澄波はかつて、台湾で自分探しをしたことがあり、極めて強い主観的意識と郷土の色彩感は一生持ち続けました。正統な学校で厳格な美術教育を受けた陳澄波ですが、それに縛られることはなく、作品は、強くこだわった「素人」的個性にあふれ、そこには実に独特の味わいがあります。こうした自らのスタイルは、この時期に育まれ、成熟しました。


台湾に戻った翌年、陳澄波は、台湾全土の画家仲間と「台陽美術協会」を設立。同協会は、現在も積極的に活動する台湾最大の民間美術団体となっています。1945年に第2次世界大戦が終結し、国民政府が台湾を接収してからは、陳澄波は美術の宣伝活動を積極的に行い、美術学校の設立を計画します。しかし、国民党政権が市民を武力で弾圧した1947年の2・28事件に巻き込まれて、陳澄波は命を絶たれ、その作品と功績は埋もれていましたが、1979年になって、郷土運動の盛り上がりにより、改めて光が当てられました。陳澄波の早過ぎる死は、台湾の美術界発展において、独自のスタイルを持ち、影響力のある表現派の人物を失ったことにほかなりません。