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彫刻の巨匠 | 朱銘

  • 日付:2021-05-11
彫刻の巨匠 | 朱銘

モダニズム彫刻家の朱銘、本名・朱川泰は、1938年苗栗県通霄鎮に生まれました。幼い頃から家は貧しく、両親は生計を立てるのに必死でしたが、子どもたちに、できる限りの教育の機会を与えることは忘れませんでした。

 15歳の時、朱銘は彫刻家の李金川の下で、彫刻と絵を学び始め、彫刻家への道が始まりました。李師匠は朱銘に、「絵を描けない彫刻家は、建物を造れても設計図を描けない建築家と同じだ」と教えていたため、弟子時代の朱銘は、昼間は彫刻を、夜は絵を学ぶというように、人一倍努力しました。

 伝統的な修業期間である3年4カ月を満了して師匠の下を離れ、朱銘は彫刻の経験を積んでいきました。1961年、朱銘は、同郷の女性である陳富美を妻に迎えます。この愛妻のために彫った「玩沙的女孩(A girl playing sand)」は、後に有名な作品の一つとなります。

 30歳の時、既に高い収入を得る彫刻家となっていた朱銘でしたが、「真の芸術家」になりたいとの思いから、著名な彫刻家の楊英風の門下に入り、再び弟子の身分となります。工芸彫刻から本格的に芸術創作の世界に飛び込んだ朱銘、ここが人生の転機となりました。朱銘は、昼は楊師匠の弟子として学び、夜は自宅で弟子を率いて生活のための工芸品制作の仕事を行いました。弟子が仕事を終えた後、朱銘は小さな部屋で自身の創作を行いましたが、その作業は往々にして深夜まで続き、人並外れた気力で創作を追求しました。

 1976年3月、台北の国立歴史博物館で初の個展を開催したところ、各界からの評判を呼び、朱銘の芸術界でのポジションが確立されました。来場者の多さから、博物館は会期を延長したほどです。朱銘の郷土色あふれる作品は、台湾の文化界から広く注目され、議論されました。

 1980年、朱銘は米国に渡ります。ニューヨークの小さなガレージで、材料やスペースに関することなど、さまざまな問題を乗り越えて、「人間シリーズ」を構想。80年代初頭はニューヨークで創作に没頭します。初めてニューヨークで個展を開くアーティストで、作品が売れるケースは珍しく、ましてや、朱銘は、米国では名も知られていない台湾のアーティストでしたが、当時の展覧会の成果は、画廊オーナーが、「奇跡」というほどのものでした。

 80~90年代は、朱銘が芸術的創作を全面的に発展させた時期で、この頃、「太極シリーズ」と「人間シリーズ」が並行して創作されていました。「太極シリーズ」は、言語性と精神性が深化していき、当初は、太極拳の技のポーズを簡素化した形状でしたが、徐々に、朱銘が持った刀は「形」ではなく、「意」に沿って動き始め、自然、シンプル、質実というスタイルが表現されたものとなりました。一方、「人間シリーズ」は、朱銘の俗世間のさまざまな人物に対する観察と表現が反映されています。

 繰り返しを好まない朱銘は、変化を求め、心から湧き出る感覚に従い、新たな領域からの呼び掛けを追求しました。朱銘の人間シリーズは、彫刻材に、木材だけでなく、陶磁器用粘土や、スポンジ、青銅、ステンレスなどが使用されています。また、テーマには、俗世間のさまざまな人の様子を取り上げており、例えば、うわさ話をする人、今風の女子、アスリート、僧侶など、非常に幅広いものが対象となっています。

 朱銘は1987年から、台湾北端の金山という町で、美術館建設の準備に取り掛かり、夢の実現に向けて動き始めました。1999年、12年という長い苦労と、積み重ねてきたものが結実した朱銘美術館が正式オープン。美術館は、朱銘の最大の作品であり、また、彼の社会と芸術教育への最大の貢献と恩返しでもあります。

 台湾では、朱銘の芸術における成果が評価され続けています。2003年、輔仁大学から名誉芸術博士の学位が贈られ、学位授与の際、朱銘は、「努力を続ければ、醜いアヒルの子も白鳥になる」と述べています。

 2004年、台湾の文化界で最高栄誉とされ、生涯の成果をたたえる「行政院文化奨」が朱銘に贈られます(行政院は内閣に相当)。また、2007年には、第18回福岡アジア文化賞―芸術・文化賞を受賞。アジアにおける文化創作に対する貢献が称賛されました。

 今では高齢の朱銘ですが、ドラマのような数々の人生の転機を経て、なお、旺盛な気力、使徒のような情熱で、芸術の道に身をささげています。「芸術とは修行である」が、朱銘の美学であり、人生における信仰でもあります。