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布袋戯の巨匠 | 黄俊雄

  • 日付:2022-02-15
布袋戯の巨匠 | 黄俊雄

布袋戯の巨匠である黄俊雄は1933年、台湾中部の雲林県虎尾鎮に生まれ、14歳の頃から父について布袋戯の技を学びました。布袋戯は台湾伝統芸能の人形劇。父は布袋戯の世界で「通天教主」と呼ばれた黄海岱です。黄俊雄は幼い頃から、古文や伝統音楽である南北管の戯曲音楽などを学び、特に、北管の鑼鼓を得意としていました。父の黄海岱は、四書五経や詩詞の教養、優れた文才など、布袋戯業界で最も漢文の素養を備えていると認められていた人で、黄俊雄に漢学の基礎を仕込みました。

 

父による稽古で基礎を築いた黄俊雄は、次第に独自の表現を作り上げていきます。また、一見すると難解な古文を分かりやすい言葉で、現代の観客が理解できるように伝えるため、自らは、語彙の背景にある筋道を理解するよう努めました。このほか、黄俊雄が好むダンスや音楽、映画といった布袋戯ではないもの、伝統的ではない要素を絶妙に融合。最終的には、分野を超えたパワーが一体化したことで、黄俊雄独特の創作エネルギーとなりました。

 

黄俊雄は19歳の時、劇団「五州園第三団」を結成。1957年には父の後を継いで、この劇団を「真五州園掌中劇団」として組織変更し、南部・高雄の劇場、富源戯院で演じました。真五州園掌中劇団は伝統的な布袋戯の枠を超えて、映画やテレビ、レコードなどさまざまなメディアに進出しました。

 

1966年、黄俊雄は布袋戯「六合シリーズ」を制作します。このシリーズは、黄俊雄が商業劇場で有名になった重要作品です。「六合血染風波城」「流星人血戦死刑島」「六合三秘魂断血海人頭橋」といった作品では、伝統的な鑼鼓を使った音楽が採用され、主要登場人物の六合や老和尚の登場シーンでは、北管の曲が使われています。

 

また、1968年、1969年には、「西遊記」「大飛龍」「大傷殺」という映画3作品を続けて撮影。これは映画の技術で布袋戯の芸術性を示した草分けで、大変な創造性と改革の勇気を伴うことでした。

 

1969年からは、台北の劇場、今日世界松鶴庁での上演を開始。手作りした新しいタイプの大型の人形と舞台形式に流行音楽を合わせ、伝統的な布袋戯を都会の商業劇場で演じるという新たな芸術スタイルを作り上げました。

 

1970年には、史艶文(雲州大儒侠の主役)をテレビに送り出します。これはまさに、大胆な試みと、伝統的な要素を全て融合させたものでした。黄俊雄の布袋戯は、発声による役の演じ分けが明瞭で、文言音と白話音が混ざった台湾語がふんだんに用いられ、味わい深いものがあります。また、黄俊雄が生み出したキャラクターである史艶文は、台湾社会のかけがえのない記憶となっているだけでなく、テレビ布袋戯「雲州大儒侠」の伝説も打ち立て、布袋戯が専門分業化に進む契機にもなりました。

 

黄俊雄は現代のテクノロジーを大胆に活用しました。テレビの「サイエンスメディア」という特徴を十分に把握して、「テレビ言語」と「伝統的な布袋戯言語」を巧みに融合し、素晴らしい表現効果を生み出しました。伝統的な布袋戯にとっては、一種の「創造的破壊」が、布袋戯を現代社会に再生させ、台湾布袋戯の発展史における「非連続性の時代」を築いたのです。黄俊雄は、テレビメディアと布袋戯創作を結び付けた新たなパラダイムでした。

 

また、黄俊雄の布袋戯に出てくる主人公の主題曲は多くが、伝統的な南北管の戯曲をもとにして、新たにつくられた台湾語の曲で、長く色あせない魅力があります。例えば、南管をもとにした「相思灯」「秋風亭」、北管をもとにした「秘中秘」「孤単老人」「梅君子」(万毒美人女暴君と同じ曲)は、伝統的な戯曲音楽に新たな命を吹き込み、大衆文化を通して、一般の人にも伝統的な戯曲の奥深さを伝えました。

 

2009年、黄俊雄は文化建設委員会(現文化部)から「無形文化資産保存者」として登録され、2011年には「人間国宝」に認定されました。また、20151112日に「二等景星勲章」を授与されました。