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台湾初の抽象画家|荘世和

  • 日付:2022-03-28
台湾初の抽象画家|荘世和

荘世和は1923年12月12日、台湾南部の台南で生まれ、幼い頃、家族と共にさらに南の屏東に転居しました。潮州公学校で学んでいた頃に、絵画の才能を発揮。ミレーの作品「晩鐘」の物語に感動し、美術の道に進むことを決意しました。その後、父の後押しもあり、1938年に日本の川端画学校に入学し、デッサンなど絵画の基礎技法を習得。1940年には東京の美術工芸学院純粋美術部絵画科に進み、1943年に研究科に進学して、立体派(キュビズム)や超現実主義(シュルレアリスム)など、日本における1930年代以降の前衛芸術の現代主義(モダニズム)潮流に幅広く触れ、学びました。


美術工芸学院院長の外山卯三郎は荘世和の師であり、親身に指導に当たりました。中でも、前衛芸術とモダニズムの学術的理論と、外山が唱える「純粋絵画論」は、荘世和の創作と芸術観に大きな影響を与えました。


1946年に台湾に帰った荘世和は、美術評論家の何鉄華が1952年に設立した「新芸術研究所」に参加。キュビズムやシュルレアリスム、抽象表現主義などの絵画様式について、教え、執筆し、紹介しました。1950年代初期の台湾では、数少ないモダニズム絵画を積極的に推進した台湾出身の芸術家でした。


荘世和は1957年、潮州に帰って教職に就き、同年、「緑舎美術研究会」を設立。屏東では初の絵画団体となりました。1961年には、高雄で「新造形美術協会」を設立し、「創型美術展覧会」を立ち上げます。また、「南部現代美展」や「自由画展」の設立にも参画。モダンアートの理念を広め、南台湾に熱い芸術エネルギーをもたらし続けました。


1968年には「南部現代美術会」などの団体創設に参画。晩年まで、地方の芸術活動への参加や、芸術家の評論執筆を続け、芸術教育と芸術理念の推進に力を尽くし、現代絵画の南台湾での普及推進に大きな影響を残しました。


荘世和の創作は次の3期に分けられます。①キュビズム探索期(1940~52年)②文学内包的シュルレアリスム期(1953~59年)③シュルレアリスム的抽象期(1961~2020年)。作品総数は約718点で、油彩画が591点、水彩画が51点、水墨画が9点、デッサン画が67点。このうち、主な代表作3点として、「詩人的憂鬱」「阿里山之春」「風景」が挙げられます。中でも、「詩人的憂鬱」は、荘世和が「純粋絵画論」を織り交ぜて、コラージュ技法を実践したもので、台湾美術史においては、コラージュという概念を有した現存する中では最も古い作品です。


また、荘世和は、シュルレアリスムに沿って展開した物質的探索について、自身で「物質(material)研究」(材料あるいは材質研究とも)と呼んでいました。戦後、これを「物体」(object)という概念に修正、拡充しました。つまり、オブジェアートです。


1960年代、台湾にはまだ、質的に十分な芸術評論家がいなかった中、「オブジェ」あるいは物体概念は、李朝進や劉鐘珣といった若い世代の芸術家が進めるミクストメディアの試みを適時に補い、サポートしました。また、荘世和は、台湾中・南部で活躍する数多くの芸術家に注目。例を挙げますと、黄朝湖、曽培堯に対する評論の視点は、北部の画壇の解釈とは大きく異なるものでした。


2020年11月18日、荘世和は自宅で安らかに息を引き取りました。96歳でした。その一生は、教育界で40年以上、美術教育に力を注ぎ、南台湾のモダンアートの発展に多大な功績を残しただけでなく、台湾の芸術史においても非常に重要な存在でした。