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医師の画家 | 許武勇

  • 日付:2023-01-03
医師の画家 | 許武勇

許武勇は1920年、台湾南部の台南で生まれ、日本教育の下成長しました。台北高等学校在学中、美術教師だった塩月桃甫に師事し、非常に大きな影響を受けました。1941年には同校を首席で卒業し、東京帝国大学医学部に合格しました。


美術をより研さんするため許武勇は、日本の独立美術協会会員である樋口加六が指導する東京帝大医学部の美術サークル「踏朱会」に入ります。東京帝大の4年間、許武勇は樋口のアトリエで木炭デッサンを練習しました。専らヌードを描き、確かな絵画の基礎を築きました。


「十字路」は1943年、許武勇がまだ東京帝大の学生だった頃、初めて展覧会に応募した作品です。彼の描く台湾は、十字路で戸惑うように、どうしたらよいのか分からないでいるようです。この作品は独立美術協会の第13回独立展に入選し、上野美術館に展示されました。当時、樋口加六は許武勇に「君は医者よりも画家の方が合っている」と言ったそうです。


師匠の励ましに加えて、独立展で入選して認められたことで、当時24歳だった許武勇は美術の道を進む決意を固めました。1944年、許武勇は東京帝大医学部を卒業し、医学博士の学位を取得しています。


1946年、台湾に戻った許武勇は、結婚して間もない妻を伴い、阿里山林場の医師として勤務。その後、台南と高雄でも勤務しました。1952年には米国への公費留学奨学金の試験をパスして留学。カリフォルニア大学バークレー校で公衆衛生を研究しました。この留学を機に米国の東海岸、西海岸の美術館や現地の展覧会を見て回り、西洋美術の宝庫に接しました。


1953年、許武勇は米サンフランシスコのLucien Labaudt画廊で個展を開きました。これが自身初の個展で、台湾の画家としても初となる米国での個展開催でした。許武勇は帰国後、「農村(2)」で第10回台湾省全省美術展覧会で3回目の特選を受賞。これにより最高栄誉賞も受賞しています。その後、許武勇は同展覧会に十数年連続で立体主義(キュビスム)作品を出展しており、台湾美術界におけるキュビスムのパイオニアでもありました。


米国の修士号を取得して帰国した許武勇は、引き続き高雄県路竹郷(現・高雄市路竹区)の衛生所で医師として勤務します。しかし、美術活動に便利なように46歳の時に台北に転居し、「武勇診療所」を開業。1階を診療所、2階はアトリエとしました。許武勇は生涯、プロの画家となる夢を忘れたことはなく、医師としての収入で創作活動を続けていました。


この頃、画家としての許武勇は自身の生み出したスタイル―いわゆる「ロマン主義」の作風による表現を始めています。1987年には大腸がんを患っていることが分かりました。手術を経て、人生はとても短いものだということに気付いた許武勇は、残りの限りある命は自身の理想を追求するべきだと考えました。そして、がんを克服した後は医師を引退し、プロの画家となったのです。


医師として常に、命が生まれて、年齢を重ね、病を得て、死に至ることを見てきた経験から、許武勇はいつも、「体のある命は結局、あっという間に終点にたどり着いてしまう。芸術こそが永遠の命なのです」と語っており、芸術によってこそ、美の思想と命を永遠に伝えていけるのだと信じていました。


医師を引退してからの許武勇は、1分、1秒を大切にして創作に打ち込みました。その作品には、世界、命、台湾の土地に対する愛と共感が宿っています。許武勇は2013年、最後となる、集大成でもある画集を出版しました。その後、2016年に台北で逝去。96歳でした。



(写真は許武勇の家族提供)