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台湾特有の「眷村文化」

  • 日付:2016-11-30
台湾特有の「眷村文化」

眷村の始まり-激動の時代、波乱の運命

1949年、対岸の中国から、大勢の軍人と人民が国民政府に付き従って台湾にやってきました。混乱の中、台湾にやってきた軍人と人民は、軍営や学校の周囲に、簡素な住居を作り、生活の場としました。このような集落を「眷村」と呼んでいます。


国民政府は当時、「大陸反攻」、つまり、武力による大陸の領土奪還を絶対の目標にしており、眷村の住居が狭く簡素なのは、「仮の住処」だったからだと考えると理解できます。多くの眷村の住居は、安く作れる竹垣で庭を囲っており、眷村の女性たちは、庭で鳥を飼い、野菜を育て、食材の足しにしていました。


「一年で準備、二年で反攻、三年で掃蕩、五年で成功」を眷村全体のスローガンに掲げていましたが、気が付けば、60年以上の年月が過ぎていました。


時代の流れの産物

国軍眷村文化の発展は、近代の台湾社会の歴史の変化において、重要な役割を担っています。竹垣で囲われた眷村は、台湾各地に分布しており、特有の文化を育みました。この眷村文化にある「感情」は、故郷に対する思いと、台湾に対する拠り所としての思いが入り混じったものなのです。


消えゆく眷村

竹垣で囲われた眷村は、高層ビルに取って代わられ、眷村文化も消失の危機に晒されています。


時代の変化によって、昔ながらの眷村は徐々に姿を消し、第一世代の住民も減っています。第二、第三世代は、眷村の取り壊しや就職、結婚など様々の理由で眷村を離れ、活気ある賑やかな眷村は過去のものとなりました。


都市文化の流れの中で、眷村文化は徐々に埋没していきましたが、政府は、台湾特有の眷村文化を守るため、眷村のリノベーション政策を積極的に推進。歴史の証人として、眷村文化の保存を重視しています。


中華民国婦女連合会の1982年の統計によると、眷村は台湾全土に、違法建築を除くと、879カ所あり、その総面積は2000ヘクタールに上ります。


眷村の歴史的保存と活用


台北-四四南村

1948年に建設された四四南村は、信義計画区の土地開発と眷村の建て替えに伴い、1999年、住民が全て退去し、残った建物は取り壊しの運命にありました。しかし、台北市政府は、四四南村を「歴史的建築物」として位置付け、このうち建物4棟を保存、リノベーションの対象に指定。2003年10月25日、信義公民会館と眷村文化公園が誕生しました。その敷地面積は約4150坪、建物の総床面積は約720坪。超高層ビルの台北101とともに、歴史的な雰囲気と現代感あふれる台北に存在する様子は、多様な都市の風情を醸し出しています。