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烏山頭ダム及び嘉南大シュウ

  • 日付:2016-07-15
烏山頭ダム及び嘉南大シュウ

環境紹介

嘉南大シュウの建設には、烏山頭ダムのほかに、5万ヘクタールに及ぶ濁水渓以南から北港渓以北(1975年から同年設立された雲林水利会の管轄下に)のかんがいも含まれます。八田与一技師は調査の後、ダムの予定地を亀重渓(急水渓上流部の支流)から官田渓(曽文渓の支流)の上流に変更。曽文渓の別の支流(大埔渓)に簡易堰を設け、取水口(東口)、烏山嶺トンネル、西口を経由してダムに水を引き入れました。貯められた水は送水施設、導水路、閘門を経て嘉南大シュウの南・北幹線によって嘉南地域に供給、かんがいに使われています。


歴史・沿革

清代、嘉南大シュウの域内にはオランダ人や現地の人々が造った小型の貯水施設や取水施設があり、かんがいや耕作に使われていました。康熙帝の時代には82カ所存在し、その大部分は小型の池や川を利用し、簡易な方法でかんがいが行われていました。それぞれのかんがい面積は非常に小さく、数十甲(1甲=0.97ヘクタール)から数百ヘクタールとばらばらで、すべてを合わせても5000ヘクタール余りしかありませんでした。


烏山頭ダムには現在もオランダ統治時代のかんがい跡が、台南には鄭氏政権時代に設置された「承天潭」、「公爺陂」(現・関廟区ヒ仔頭)、「弼衣潭」(現・新化区香洋仔)、「草潭」(現・帰仁区大潭)、「陂仔頭陂」(現・仁徳区ヒ仔頭)、「五老爺陂」(現・帰仁区太爺)、「祥官陂」(現・帰仁区ヒ仔頭)などのかんがい用の池が残されています。漢民族の移民は荒れ地を開拓、土地の価値を高める水利文化を持ち込み、「有土斯有財」(土地があってから財産を築くことができる)という考え方を台湾に浸透させました。


嘉南大シュウの誕生
1. 農民による大シュウ建設の申し入れ
日本統治時代の嘉南平原では、食糧生産のために熱心な地元の人々が、日本政府に対してかんがい施設の改善を絶えず求めていました。その後、嘉義庁長の相賀照郷が、桃園地域が貯水池を造り乾季のかんがいに備えた経験から学ぼうと、現地の人々とともに、嘉南地域にも同様の貯水池を築くよう日本政府に求めました。これを受け土木局は八田技師を急水渓と六重渓に派遣し、ダムの建設が可能かを調べる簡単な調査を2週間にわたり実施しました。調査の結果、曽文渓の支流の一つである官田渓付近の地形が堤の建設に適することが分かり、1917年に計画が起草されました。1918年10月には推薦を受けた代表が嘉義、台南の両庁長に対し、迅速な実施を求めました。


嘉南大シュウの建設計画
嘉南大シュウは簡単な調査の後、工費が多く、桃園大シュウのような政府による建設が難しいことから、官民が共同で事業に取り組むことになりました。総督府は嘉南大シュウの工事の実施方針を決定し、補助金の実施を含む予算案を議会に提出した後、計画の概要と実施方針を台南、嘉義の両庁長に送っています。


創立準備委員長には台南庁長の枝徳二、嘉義庁長の相川茂郷、準備委員には両庁の庶務、警務、財務の課長、支庁長と関係職員が、創立委員には製糖会社の代表、庁参事、区長、大地主などが就任しました。


1920年8月に関係者の代表、陳鴻鳴など118人が建設計画の申請書を提出しました。この計画は政府の認可を得たほか、「台湾公共ヒシュウ規則」第2条に基づき、公共ヒシュウと事業区域が認定・公告されました。かんがい面積は15万甲(約14万5500ヘクタール)に増加し、総工費は4200万円(当時)でした。政府の補助額は1200万円で、農民の負担は3000万円、工事は政府の監督のもとで進められました。