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作曲家 | 曽興魁

  • 日付:2022-11-01
作曲家 | 曽興魁

台湾の作曲家である曽興魁は1946年6月30日、台湾南部の屏東県美和に生まれました。物資の乏しい時代、音楽好きの兄の影響で音楽に対する興味が養われました。曽興魁が本格的に音楽に接したのは、国立屏東師範学校(現在の屏東教育大学)に進学してから。当時の師範学生はオルガンが必修だったことと、合唱クラブに参加したためです。卒業後は、台南市海東小学校で教員を3年勤め、その後、推薦を受けて国立台湾師範大学音楽学科で学び、音楽の道に進みました。


1977年、教育部(教育省)の公費留学でドイツのフライブルク音楽大学に留学。音楽理論と作曲を専攻し、クラウス・フーバーやブライアン・ファーニホウ、ピーター・フォーティという著名な師について学びます。曽興魁は、音楽構造の組み合わせや創造性といった面で、フーバーの影響を強く受けています。また、ファーニホウからは作曲のテクニックと思考の複雑性を学び、フォーティからは、対位法やハーモニー、楽曲分析といった理論を重視した厳格な基礎訓練を受けました。


1981年、曽興魁は帰国し、国立台湾師範大学で教職に就きます。教壇に立ちながら積極的に創作も行い、5年後にはフランス政府の奨学金を得て、同国のエコールノルマル音楽院で学び、映画音楽作曲科を卒業しました。


1989年には台湾作曲家協会の国際現代音楽協会加入を実現。留学から戻った後、同好の士である作曲家の温隆信、潘皇龍と共に「中華民国現代音楽協会(ISCM-Taiwan)」を設立しました。


曽興魁の作品は、中国文化の特色を音楽発展の源流としているだけでなく、自らの故郷も大切にしています。加えて、さまざまな新しい技法を研究開発して表現することで、伝統的要素と現代音楽によって織りなされる独特のスタイルを作り上げています。例えば、1991年の国楽(伝統音楽・民族音楽)の曲「生命的歩履」は、五音音階の民謡や鑼鼓経(戯曲の打楽器音楽の様式)といった中国音楽のエッセンスをふんだんに用いて丁寧に配置し、中国古代の宮廷音楽である雅楽から引用したメロディーも用いています。さらには、客家語や台湾語の曲も作っており、台湾の伝統音楽である南管の要素を融合することもあります。


このほか、曽興魁はあらゆる表現方法を試しています。2002年から2003年にかけては、フルブライト奨学金を得て、スタンフォード大学と北テキサス大学の客員研究員となりました。また、電子音楽の推進に力を尽くし、「超級衝突」は代表作の一つとなっています。


2005年、20年以上勤めてきた台湾師範大学音楽学科の教員を引退し、開南大学資訊伝播学科に転じました。また、中華民国電脳音楽学会を設立し、理事長、名誉理事長を務めます。あらゆる特殊効果を生み出すことができるコンピューターの活用で、音楽創作のより大きな発展を目指しました。


曽興魁は、台湾の現代音楽の発展に力を尽くし、長年にわたって音楽界に貢献し、作品を内外で広く発表してきました。今までに出演してきた場としては、オランダのガウデアムス国際音楽週間やアルクマール音楽祭、また、ソウル、仙台でのアジア・パシフィック・ミュージック・フェスティバルや、米国、ドイツ、フランスなど。さらに、作品「牧歌」はフランスの国際現代音楽図書館のVille d'Avray作曲コンクールで大賞を、「輪廻」は第3回国際パイプオルガン作曲コンクールの大賞を受賞。このほか、2013年には台湾を代表する文芸賞である第36回呉三連奨を受賞しています。


曽興魁は郷土を大事にし、さまざまな技法を研究開発して、伝統と現代が組み合わさった独特のスタイルを生み出しました。また、電子音楽やインタラクティブアートにも力を入れ、テクノロジーとアートを見事に融合させました。その作品は、細やかで優美な音楽性と前衛的で実験的なデジタルエレクトロニックの音律を合わせ持っています。曽興魁は際立つ開拓性を有し、多元的な表現法を果敢に試す芸術家です。作品が素晴らしいだけでなく、育てた人材は数知れず、台湾の現代音楽を大きく発展させました。2021年8月10日、病気のため逝去。75歳でした。