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台湾語歌手 | 文夏

  • 日付:2024-01-18
台湾語歌手文夏

文夏の本名は王瑞河といい、1928年に台湾南部・台南に生まれました。幼い頃から歌の才能を発揮し、小学校を卒業後、東京に渡って声楽、作曲、ピアノ、ギターを学びます。57年、文夏は歌の上手な少女4人とバンド「文夏四姉妹」を結成。数多くのレコードを出し、コンサートツアーで各地を飛び回りました。62年、文夏四姉妹が初めて主演した歌謡映画「台北之夜」は、映画、楽曲ともに大ヒット。その年、最も売れた台湾語映画となり、文夏は台湾語の歌、映画いずれの世界でもスターとなりました。

 

台湾で戒厳令が敷かれていた時期、テレビは娯楽の中心でしたが、テレビで放送できる台湾語の楽曲は1日に2曲までと規定されていました。このため、歌手が顔出しするには、テレビ以外の手段を取る必要がありました。こうした中、歌手を主役とする台湾語の歌謡映画が、歌手が台湾全土を回ってコンサートツアーを行う機会になり、さらには、歌謡映画ブームにもつながりました。

 

62年から72年にかけて、文夏は毎年1本ずつ台湾語曲の歌謡映画に出演し、計11本の映画に主演しました。加えて、コンサートツアーも行い、台湾全土で人気を博して有名な台湾語歌手となり、「宝島歌王」としての地位を築き上げました。しかし、当時の政府は、音楽関係者に対する圧力を緩めてはおらず、70年代には「歌手証」の発給、取り下げ、評価の制度を設けて関与。芸能人の思想を審査し、歌手が各地で行うコンサートの形式や内容を監視しました。政府のこうした動きを受けて、文夏は日本に渡って活動することを余儀なくされます。文夏は、「台湾では台湾語の歌を歌えない。日本では、台湾語の分からない聴衆に聞いてもらう」と、やるせない思いを語っていました。

 

歌唱が禁止された文夏の楽曲には、今でも耳なじみのある「媽媽我也很勇健」、「媽媽請妳也保重」、「黄昏的故郷」などがあります。こうした地方の青年が故郷を遠く離れて都会でがんばっている様子、また、異国でふるさとを思う心を映した楽曲は全て、審査当局から「軍の心をかき乱し、士気を損なう」と判断され、歌唱を禁止されました。しかし、こうした楽曲は禁止されればされるほど人気となり、中でも「黄昏的故郷」は、戒厳令下で海外に亡命した台湾の反体制派の人たちに最もよく歌われた曲でした。

 

文夏が作った楽曲は1200曲余り。このうち99曲は、台湾が戒厳令を敷いていた時期に歌唱禁止とされ、当時、禁止曲が最も多い台湾語歌手となったため、文夏には「禁曲歌王」という異名もあります。

 

創作力旺盛な文夏は晩年も新曲を生み出し、2003年には民族融和を象徴した「大台湾進行曲」を作りました。12年には、台湾の伝統歌謡と音楽文化の発展に対する貢献がたたえられ、台湾のグラミー賞といわれる第23回金曲奨(ゴールデンメロディー・アワード)の特別貢献賞が贈られました。さらに17年には、90歳近い年ながら単独コンサートを開催。台湾の音楽界で最も長く活躍した歌手となりました。