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澎湖石滬(シーフ)

澎湖石滬(シーフ)

基本説明

方位:澎湖の1市5郷のうち、一番北側の白沙郷に最も多く石滬があります。中でも吉貝島は昔から「石滬の故郷」といわれており、2006年の調査によると、島の周囲には92もの石滬があり、石滬の分布が最も多い島となっています。
対象地域:澎湖諸島は、日本統治時代の記録で64の島があるとされていますが、2004年の最新調査では、計90の島があることが分かりました。その分布水域は長さ約60キロメートル、幅約40キロメートル。水深はおよそ北側のほうが浅く、南側が深いため、北の島へ行けば行くほど、潮間帯が広く、石滬の数も多くみられるようになります。


環境紹介

一、澎湖石滬の価値

澎湖海洋文化協会の林文鎮氏は、澎湖石滬の価値について、かつての経済の生命線、最も古いエコロジー工法、全体的なコミュニティ構築の元祖、という3つがあるとみています。
1、「かつての経済の生命線」:機械による動力船が発達していなかった時代、澎湖のような資源の乏しい島では、石滬がないということは、生活を営むための設備がないということに等しく、つまりは、独立した生活ができないということでした。当時の石滬は、田畑や家屋同様に不動産としての性格があり、質入れや担保、売買、さらには遺産分割の対象でした。また、婚姻や交友関係のよしあしをはかる基準でもありました。こういった特徴は1960年以降に徐々に変化していきましたが、1950年を例にとると、当年の澎湖県全体の漁業生産額漁獲生産額のうち、石滬によるものが77%を占めており、当時の石滬による漁業の重要性がよく分かります。


2、「最も古いエコロジー工法」:石滬の石積みは、人工の接着剤などを一切使っていないため、人工物による汚染がありません。さらに、石材の表面は粗く、隙間があるため、固着生物(例えば、カキやフジツボ)と藻類の成長の場となっており、これがさらに石滬の強度を高めています。安定的に食物と隙


間があることで、稚魚の成長に最適な場所にもなっているのです。

3、「全体的なコミュニティ構築の元祖」:石滬の建設には多数の人の力を合わせる必要があります。澎湖地方史の専門家である洪国雄氏は、石滬の建設と分業においては、出資者の選定、場所の選定、石材の調達、石材の運搬、施工の時期、施工のルール、石滬のメンテナンス、石滬の祭祀といった8項目があり、こうした作業にはいずれも、石滬の所有者による分担が必要なことから、石滬は一族や廟、村、地域内の住民と密接な関係があり、また、一種の学びや、伝承、自己管理のシステムを形成しており、当時の島の文化の特徴の一つになっていると指摘しています。


二、澎湖石滬の種類
澎湖の石滬は、地形や方角、潮流といった環境の違いにより、その形状が異なります。ですが、主に、「弧形石滬」、「単滬房石滬」、「双滬房石滬」の大きく3種類に分類できます。
1、「弧形石滬」:半円状の石堤の石滬。古くは「浅坪滬」と呼ばれたもので、「滬房」という魚を追い込む囲い部分のない石滬を指します。石堤が半円状のため、「畚箕滬(もっこ滬)」や「圓籠仔圏(大きな丸いおかもち)」とも呼ばれ、通常は、水深の浅いエリアで、高潮線から近いところに作られます。このため、吉貝島の人々は「高滬」とも呼びます。


2、「単滬房石滬」:滬房が1つの石滬で、通常は水深が比較的深いところに作られます。このため、「深滬」とも呼ばれます。


3、「双滬房石滬」:滬房が2つある石滬のことで、「双聯滬」とも呼ばれます。吉貝、西嶼郷・牛心湾、七美島の双滬房石滬には構造が異なるものがあり、滬房が前後に連なったものや、滬房が左右に並んだものがあります。研究調査によると、澎湖の石滬では、弧形石滬の割合が約49%と最も高く、次いで、単滬房石滬が32%、双滬房石滬が最も少なく3%です。残りの16%は、破損が激しいために、遺構しか残っておらず、形態が判断できないものです。


三、澎湖石滬の数
澎湖石滬の数は、清朝康煕年間に22基、清朝末期には78.5基に増え、日本統治時代の大正6年(1917年)の澎湖水産会の調査では計314基、昭和13年(1938年)の石滬漁業権登記は284件でした。日本による統治終了後、1950年に政府が発行した石滬漁業権ライセンスは149件、1957年の澎湖で登記されていた石滬は192基でした。


日本統治終了後に石滬の数が減少した理由については、所有者が石滬漁業権の登記を怠ったか、機械による動力船の発達で、効率的な漁業に転向したことが考えられます。澎湖石滬の数については近年では、澎湖地方史の専門家である洪国雄氏が1999年に完了させた調査が正確です。これによると、澎湖県全体の石滬は計558基、調査時に漏れ、追記した16基を加えると、総数は574基以上ということになります。


国立澎湖科技大学観光休閒系(観光・レジャー学科)の李明儒副教授の研究チームが2005~2006年に、一部地域の石滬について行った詳しい調査で、漏れていたり、新たに作られた石滬が13基あったことが分かり、澎湖石滬の数は587基に拡大、その後2008~2009年に、残りの地域の石滬について行った調査で、さらに592基にまで増えました。これに、言い伝えにはあるものの、実際には遺構が調査できない石滬も加えると、澎湖石滬は600基以上になる可能性があります。320キロの澎湖の海岸線から、港や水深が深く石滬を作れないところを除くと、600基近くもの石滬が分布しているということは、密度と数は世界一といえ、世界文化遺産に登録する価値が十分にあります。


四、澎湖石滬の漁獲
澎湖石滬で捕れる魚の種類は非常に豊富で、1999年に澎湖地方史の専門家である洪国雄氏が行ったフィールド調査によると、以下のような魚種が捕れるということが分かりました。
キビナゴ、インドアイノコイワシ、ウルメイワシ、オグロイワシ、ウシサワラ、スマ、カンパチ、マルアジ、アイゴ、ホンニベオオニベ、ネッタイヒイラギ、クサヤモロ、イサキ、コトヒキ、ヨスジシマイサキ、ハマダツ、ホシザヨオリ、ミナミクロサギ、タカサゴ、コボラ、タチウオ、ハリセンボン、ヤクシマイワシ、ミナミゴンズイ、ハマフエフキ、アオリイカ、コウイカトラフコウイカ、モヨウハタ、イスズミ、スズメダイ、ロクセンスズメダイ、ウツボ類、エイ類、サメ類、ウミガメ類


漁獲が盛んだった時代には、良好な石滬を建設できれば、一度の潮の満ち引きで、百斤(60キログラム)、さらには千斤(600キログラム)の魚を捕獲できたといいます。石滬を見てきた長老によると、当時の魚が集まった状態の石滬では、多数の魚で水が見えないほどだったそうです。こうしたことから、石滬の所有者は一夜にして富を得て、洋風建築の住宅まで建てられたといいます。洪国雄氏は石滬調査で、「滬房」という魚を追い込む囲い部分に、数えきれないほどのキビナゴの稚魚がいたことや、滬房内に数十匹のスマが泳いでいるのを実際に見たといい、伝えられていることは事実であると考えられます。


五、澎湖石滬の分布
澎湖諸島は、日本統治時代の記録に64の島があると記されていますが、2004年の最新調査では、計90の島があることが分かりました。その分布水域は長さ約60キロメートル、幅約40キロメートル。水深はおよそ北側のほうが浅く、南側が深いため、北の島へ行けば行くほど、潮間帯が広く、石滬の数も多くみられるようになります。


澎湖の1市5郷のうち、一番北側の白沙郷に石滬が最も多くあります。中でも吉貝島は昔から「石滬の故郷」といわれており、2006年の調査によると、島の周囲には92もの石滬があり、石滬の分布が最も多い島となっています。次いで多いのが西側にある西嶼郷で、東にある湖西郷、中ほどの馬公市が続き、南に位置する島には少なくなっています。

澎湖最北端の石滬は目斗嶼にある3基で、最南端は、二つのハートが連なった形に見える七美島の双心石滬です。七美の双心石滬の近くには、この石滬を眺めるのに絶好の崖があるため、「地上で最も美しい景色」という異名を持っており、さらには、澎湖の観光イメージとなり、ロマンと愛情の象徴になっています。


選出理由

「海を田畑とする」ことで、澎湖の先達は生活を維持させてきましたが、冬になると、海を強い北東モンスーンが吹き、出航の危険性が高まります。このため、先達は澎湖の海の黒い玄武岩と白い珊瑚礁を積み上げて石滬を築き、潮の満ち引きを利用して、魚群を石滬に誘い込んで捕まえました。こうすることで、波と闘わずにすむようにしたのです。これは地域の智慧の結晶であり、世界遺産登録基準第1項に当てはまります。
石滬は石を浅瀬に積んで作った人工物で、風や波を受けて壊れやすいため、常に保護することで、使用できる状態を保てます。しかし、1970年代以降、ほかの漁法の収益が大きく増加し(石滬による利益が相対的に低下)、澎湖の漁民は徐々に石滬での漁業を重視しなくなりました。また、この十数年、人為的な海の環境の破壊が進み、澎湖の石滬の損傷状況も日を追うごとに厳しくなりました。多くの石滬で砂が堆積しているほか、一部の石滬は完全に埋もれてしまったり、一部の跡が残るだけになり、以前のような景観を再現するのが難しくなりました。こうしたことが、世界遺産登録基準第5項条に当てはまります。



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