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舞踊の大家 | 劉鳳学

  • 日付:2023-05-09
舞踊の大家 | 劉鳳学

劉鳳学は1925年、中国・黒竜江省チチハル市に生まれました。幼い頃の劉鳳学は、昼はベラルーシの子どもたちと共にクラシックバレエを学び、時には夜に「シャーマン」の儀式を見ることもありました。こうした多様な文化を背景に、劉鳳学の舞踊に対する興味は早くから芽生えていました。

1931年、日本軍が中国東北部全域に侵攻。寄宿学校に入った劉鳳学は、大学3年まで日本式の教育を受けます。その後、長春の女子師道大学の音楽体育学科に進学し、音楽、舞踊、創作、表現を学ぶ専門課程を修めました。劉鳳学は、スイスの音楽教育家・作曲家であるダルクローズが考案した音楽教育法リトミックとモダンダンスの練習に啓発され、「革新」的な舞踊のコンセプトと考えを持つようになりました。

第2次世界大戦終結の翌年、長春の女子師道大学は「長白師範学院」と名を改めて再開しました。劉鳳学は復学して改めて3年生となり、舞踊を主専攻とし、音楽を副専攻とします。残念ながら、戦火はこれで終わったわけではありませんでした。国共内戦の勃発により、砲火と転居は大学生活において日常でした。

1948年、北京に行った劉鳳学は、大きく影響を受けることになる師の戴愛蓮に出会います。戴愛蓮は、中国の民族舞踊研究の先駆け。劉鳳学は師の導きにより、チベットや新疆など少数民族の踊りを知ります。また、師の民族舞踊に関する収集からリアレンジ、舞台化、プロモーションまでの仕方も、劉鳳学の後の台湾原住民(先住民)歌舞の研究に大きく影響しました。

1949年、長白師範学院を卒業した劉鳳学は、原住民舞踊に心引かれて、国民党政権と共に台湾に渡りました。そして、舞踊の創作と研究、教育のキャリアをスタートさせます。花蓮師範学校で教えていた頃、花蓮県鳳林鎮のアミ族の豊年祭で初めて原住民の踊りに接したことで、漢民族の祭儀文化を再考。劉鳳学はこれにより、儒家の礼儀舞踊に対する研究的興味を持つようになりました。

1954年、劉鳳学は台湾師範大学体育学科の教員となり、また、実験的に中国モダンダンスの創作を開始。1958年に中国の初のモダンダンス「十面埋伏」が誕生します。中国舞踊の「ルーツ」をさらに探るため、劉鳳学は1965年、日本の東京教育大学の修士課程に進みます。当初は、研究と同時に資料を収集し、日本で保存されている唐代雅楽を調査研究する計画でした。しかし、劉鳳学は学位を諦め、宮内庁楽部で唐代楽舞の研究に全力を注ぎ、1984年に「皇帝破陣楽」の再現に成功しました。

1967年、劉鳳学は日本から台湾に戻ります。その後、「伝統を尊重し、現代を創造する」という自身の舞踊教育の理念を広め、自らの創作環境をつくるため、「現代舞踊研究センター」を設立。台湾で数多くの舞踊人材を育成し、1976年には「新古典舞団」を設立しました。

1981年、劉鳳学は英国・ロンドンの音楽・舞踊学校であるトリニティ・ラバン・コンサヴァトワールの博士課程に進み、ケンブリッジ大学の中国音楽理論家であるローレンス・ピッケン教授の指導の下、中国の儒家舞踊の研究をさらに進めました。

1987年には、論文「西暦紀元前17世紀から13世紀の中国の古代礼儀舞踊と儀式舞踊の記録と舞踊分析研究」で、英国の哲学博士号を取得。台湾初の舞踊博士となりました。

現在、表舞台からは退いている劉鳳学ですが、自身の「4本の小木」への水やりには力を注いでいます。それは、創作の文章化と唐代楽舞再現の文章化、儒家舞踊の文章化、そして、原住民舞踊を広めることです。劉鳳学は生涯を舞踊の創作と教育、研究にささげており、台湾の舞踊界への影響は大変深く大きいといえます。