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台湾現代民族音楽の父 | 郭芝苑

  • 日付:2022-07-26
台湾現代民族音楽の父 | 郭芝苑

1921年、台湾の苗栗に生まれた郭芝苑は、「(出身地である)苑裡の誇り」「苗栗音楽の父」と呼ばれ、「本土性こそが世界性、民族性こそが国際性」という意識を持ち、万人が楽しめる曲を書き上げ、当時としては数少ないクラシックと現代音楽を融合したパイオニアでした。


裕福な家庭に育った郭芝苑は幼い頃から、芸術を愛する父、郭万最の影響を受けて、伝統音楽の北管や南管、伝統芸能の歌仔戯などの音楽を耳にして育ちました。学生時代には日本の教育を受け、日本の歌謡曲に親しみました。1934年に台南の長老教中学(現在の長栄中学)に進学。この時期に賛美歌に触れ、学校のハーモニカクラブに入ったことで、西洋音楽に興味を持ち、その後、日本に渡って東京の東洋音楽学校(現在の東京音楽大学)で学ぶことになります。同じ頃、台湾の音楽家である江文也の影響を受けたことで、さまざまな作品を創作することで台湾の民族音楽に力を注ぐことを決心します。


1946年に台湾に戻ってからは、新竹師範学院で採用されますが、中国語が得意ではなく、台湾語と日本語しかできなかったことと、国民政府の言語政策の影響で、書き上げた曲は往々にして「国語(中国語)」でしか発表できなかったことから、郭芝苑はよく自らを「声を失った世代」だと言ってはばかりませんでした。戦後初期の台湾音楽界で一時期活躍した後、郭芝苑は田舎に戻って創作に専念しました。


1959年に台湾の作曲家である史惟亮がフランスから帰国し、一連の現代音楽運動を展開します。郭芝苑は知己を得たような思いでさらに創作に励み、「台湾古楽幻想曲」「村舞」「東方舞」「鋼琴奏鳴曲(ピアノソナタ)」などを相次いで送り出します。1967年には46歳で再び日本へ渡り、東京芸術大学音楽学部作曲科でより深く学び直します。


1973年、郭芝苑は史惟亮の誘いで「台湾省交響楽団」研究部に入り、作曲や編曲、曲目解説などを専門に担当。ここで14年もの時を過ごしました。


1994年には、声楽家の阮文池と知り合い、共に「台湾語芸術歌曲運動」を推進します。郭芝苑が台湾語の楽曲創作を手掛け、阮文池が出演やメンバーの稽古を担当しました。これにより郭芝苑は、再び創作のモチベーションを得て、晩年は最も慣れ親しんだ母語である台湾語の楽曲創作に戻り、台湾語の楽曲推進に力を注ぎました。


郭芝苑は多様で幅広いジャンルやスタイルの創作を行ってきました。その作品には、交響曲「唐山過台湾」や、1986年に初めてフランス・パリで上演されたオペラ「牛郎織女」、また、オペレッタ「許仙与白娘娘」など、さまざまな管弦楽曲、協奏曲、合唱曲、さらには、有名な「紅薔薇」、「初見的一日」「心内事無人知」、台湾愛国の歌「台湾頌」「前進!台湾人」などがあります。晩年の作品は念謡、唱謡という童謡のような曲を中心に、幼い頃に聞いた音楽を作品に取り込み、シンプルで素朴な台湾の音に回帰しました。


郭芝苑は生涯で数多くの賞を受賞しています。1987年には「小協奏曲―為鋼琴與弦楽器(ピアノと弦楽器のためのコンチェルティーノ)」で行政院新聞局の「金鼎奨」作曲賞を受賞し、1993年には台湾を代表する文芸賞「呉三連奨」音楽類芸術賞を受賞。また、1994年に交響組曲「天人師」で旧制度の第19回「国家文芸奨」を受賞しています。このほか、2002年に台湾版グラミー賞ともいわれる第13回「金曲奨」終身特別貢献賞を、2006年に第10回「国家文芸奨」と「行政院文化奨」を受賞。2008年には二等景星勲章を授与されています。


郭芝苑は2013年4月、大腸がんのため自宅で逝去。92歳でした。郭芝苑は創作人生で50曲以上の台湾語曲を書き上げ、命をもって郷土への愛と永遠に衰えることのない創作に対する情熱、台湾人としての誇りを表現しました。


(写真は郭守青さん提供)