日本統治時代(1895~1945年)初期の台湾総督府関連部署は主に、清朝から引き渡された公的建築を臨時庁舎や官舎として使用し、1898年以降に、総督府の官舎エリアを徐々に整備していきました。「自由之家」はこうした背景の下建築された建物で、台湾銀行の職員宿舎として使用されました。
100年以上の歴史を持つ「自由之家」は、日本統治時代、国民政府の台湾移転、台湾の戦後復興期を経て、第2次世界大戦後は、外交関連の招待所となり、一時期は「大使之家」とも呼ばれました。その建築様式と各時代の特色が結び付き、歴史や文化、芸術的価値を兼ね備えていることから、文化部文化資産審議会が2018年、国定古跡とすることを決めました。
1902年に建築された「自由之家」は、和洋折衷の設計で、邸宅はれんがと木をコンクリート構造に組み合わせたもの。後に、火事に遭って再建され、再建後の主な建物は鉄筋コンクリート構造となりました。建物本体は、2階建ての洋風建築ですが、床は以前のままの木の構造が残されています。この建物は、日本統治時代以降のそれぞれの時代の建築様式を体現しています。
「自由之家」は、元は台湾銀行頭取の邸宅で、日本統治時代の高級官舎でしたが、1911年に銀行職員の休憩所「台銀倶楽部」となり、さらに、倶楽部の付属建物が増築されました。当時の台湾総督だった佐久間左馬太が「碧榕園」と名付けて、剣道部と柔道部を設置し、武士道を奨励する場となりました。
1945年の第2次世界大戦終戦後、「自由之家」は国防部に引き渡されて外交招待所となり、内外の賓客をもてなしたり、国際会議を行ったりする場として使われました。赴任先から帰国した外交部の使節が、頻繁に利用したことから、「大使之家」と呼ばれた時期もありました。
1950年代以降は、「反共抗俄(反共産主義、抗ソ連)」の重要な政治集会の場となり、反共主義組織「世界反共連盟(世盟)」、難民支援団体「中国大陸災胞救済総会(救総)」といった団体の反共活動の場として利用されました。1967年の世盟第1回会議が台北で開催され、64カ国・地域の組織と12の国際反共団体が参加。この大会で、世界反共宣言、世界反共連盟共同綱領が採択されました。
このほか、「自由之家」は、民主主義の理念を伝える政治雑誌「自由中国」の主要な集会演説の場でもありました。同誌は、胡適や殷海光、雷震といった知識人が発行していたものです。
「自由之家」はかつて、台湾政界の人物が出入りした所、国際社交の場、「反共抗俄」の拠点だったというだけでなく、近隣の「大同之家」や「厳家淦故居」との関連があります。この3つの建築物群と環境の保存の良さは、1950年代の台湾の戦後復興期を経たものとしては、数少ない今日まで保存されている建築物の1つです。文化財の全体的な保存状況から、この建築物群は、歴史の道筋を物語る、歴史的意義を持つ象徴的な空間となっています。