霧峰林家はかつての台湾の五大一族の一つで、中部・台中の霧峰で勢力を伸ばしたことから、こう呼ばれるようになりました。19世紀中期以降、林家は太平天国や戴潮春の乱の平定に協力し、清仏戦争にも関わったことで、軍隊や樟脳の専売権といった特権を持つに至りました。また、台湾中部の膨大な田畑を掌握し、清朝統治時代以降の台湾社会で最も影響力のある一族の一つになりました。
国定古跡の霧峰林家宅園は、霧峰林家の阿罩霧(霧峰の旧地名)地区にある庭園と邸宅の総称で、建築古跡には「下厝」「頂厝」「莱園」の三つの部分があります。もとは台湾で最大規模の伝統的邸宅で、全体的な配置は「回」の字の形となっており、全部で四進あります。(「進」は基本の構成のこと)
下厝の建築群は、草厝、宮保第、大花庁、二房厝、廿八間からなっています。霧峰林家宮保第園区で公開されているのは、下厝に属する「宮保第」「大花庁」「草厝」の三つの建物です。
「宮保第」は台湾で現存する唯一の清代の最高官位一品官の邸宅です。1858年に林文察が最初に建てたもので、現存するのは第三進と左右内外にある護龍と呼ばれる建物です。林文察は太平天国の乱で戦没し、1864年に「太子少保」という官職に追封されたため、邸宅が「宮保第」と呼ばれるようになりました。建物は全体的に左右対称で、五進十一開間(「開間」は区切った空間のこと)の配置。第一進と第二進の門庁(玄関や通路機能を持つ建物)は林朝棟が1870年から1883年に増設したものです。後に第四進と第五進も相次ぎ増設され、1895年に完成しました。主屋(母屋)は穿斗式と呼ばれる構造を採用。第一進と第五進の屋根はツバメの尾のように跳ね上がった形になっており、第四進と第五進の間は特殊な廊院形式と穿心亭形式と呼ばれる構造を採用していましたが、既に倒壊したり、取り壊されたりしています。
「大花庁」は1890年から建設が始まり、1894年に完成し、五開間三落(進)の配置となっています。建物は福州式舞台と独特の巻棚という様式になっており、台湾で唯一見られるものです。ここにある八角藻井(伝統建築に用いられる装飾的な天井)には花の王様といわれる牡丹が彫刻されています。豊かで富貴な姿の牡丹が真上の中心で咲き誇っており、発展富貴の意味があることから「大花庁」と名付けられました。木造構造には閩浙建築のスタイルが見られ、舞台には緻密な花の彫刻がなされており、拝殿の屋根の構造は曲線の垂木を用いた菱角軒という様式で、非常に特徴的なものとなっています。ここは林朝棟が撫墾局(山地開墾や原住民を管理する機関)局長に就いていた時期に軍事会議や公務上の宴席に使うために建設されました。林家が客をもてなす場であり、観劇の場でもありました。当時は専属の劇団もあり、現在でいうところの「ゲストハウス」や「私設劇場」で、霧峰林家が盛隆を極めた時期を象徴するものです。
「草厝」は霧峰林家で最も古い時期に建設された建物で、林家の子孫は「起家厝」と呼んでいます。草厝の建築物は正身(正面中央の中心的な建物)と護龍(正身の左右にある建物)からなる三合院の草屋根の建物で、穀倉と門楼(門の上に楼閣があるもの)を備え、外には大きな庭園もあります。1837年ごろから建てられ、霧峰林家の初期には重要な生活スペースでした。建築部分は日本統治時代に損壊し、1930年の写真を基に、当時の工法、材料で修復されました。中でも、もとは「公媽庁」とされていた正身は、修復時にかやぶき屋根とし、現在の古跡修復では珍しいものとなっています。
1985年、霧峰林家は内政部(内務省)から国定古跡に指定されました。しかし、1999年の921大地震で建造物群が大きな被害を受けたため、長期にわたる修復が行われ、2014年7月に改めて霧峰林家宮保第園区が公開されました。同園区は林家の下厝の一族が共同で設立した林本堂股份有限公司が運営しており、詳細な解説を行っています。芸術文化の力で霧峰を再興し、霧峰地区の観光発展につなげるため、政府による文化政策推進に歩調を合わせています。