メインのコンテンツブロックにジャンプします

台北機廠

  • 日付:2017-10-16
台北機廠

台北機廠は、台湾鉄路管理局(台鉄)の機関の一つで、以前は主に、台鉄の車両のメンテナンスと改装を行う拠点でした。百年の歴史を持つ台北機廠は、清朝、日本統治時代、日本統治終了後の台湾の近代化や発展を見届けてきました。また、台湾の伝統的な鉄道文化を残しており、2015年に文化部から国定古跡に指定されました。


台北機廠は台北市信義区に位置しており、その歴史は1885年、清朝光緒期にまでさかのぼることができます。当時は、台北機器局といわれていた台北機廠は、最初は台北市中正区塔城街に設立され、初代の台湾巡撫だった劉銘伝による台湾の近代化推進の重要基地でした。1895年、日本による台湾統治が始まってからは、日本砲兵工廠となりました。1900年にはさらに、鉄道部の所属となり、鉄道車両のメンテナンスを担当するようになると、急速に業務量が増えて手狭になったため、1935年に現在の場所に移転されました。


台湾鉄道の営業エリアが広がったことを受けて、十分な修理能力の確保のため、「新台北鉄道工場」の建設が1930年に始まり、1935年10月末に完成。戦後に台北機廠と名称が変更されました。台北機廠は第2次大戦後、中華民国政府に接収され、引き続き鉄道車両のメンテナンスを担当。2012年にその機能は、富岡車両基地(桃園市)に移され、台北機廠は役目を終えました。


現在の台北機廠には、伝統的な鉄道文化が多く保存されています。敷地内には4つのエリアと、屋外の大型クレーン、遷車台、事務所、バスケットボールコート、大講堂、日本統治時代から残る従業員用浴場などの休憩施設があります。この浴場からは、日本の伝統的な入浴文化が感じられます。また、技術者養成所だった所は、撤去後に文物室として使用されています。


鍛冶工場内にある3組の蒸気ハンマーは1889年の英国製で、2012年の工場閉鎖まで使用されていました。ただ、石炭の燃焼を動力としていたため、工場内が非常に暑くなり、従業員はパンツ1枚で高温に耐えていました。この3組の蒸気ハンマーは、現在でも稼働が可能で、台鉄の高度な修理力が分かります。また、敷地内に保存されている車両「EMU100形」は、電車によくみられる角ばった車両とは違い、なだらかな曲線の外観から、「英国貴婦人号」との異名もあります。


一等地にあるこのような広大な土地をどう活用するか、一時は各界で熱い議論が巻き起こりました。最終的には、現在の場所に、鉄道博物館として保存されることになりました。2018年から、台北機廠は6段階の修復計画が始まり、10年後にはアジア最大の鉄道博物館として生まれ変わる予定です。