黃俊銘は1957年、台湾南部の嘉義市に生まれました。東京大学で工学博士の学位を取得し、現在は、台湾の中原大学建築学科副教授(准教授)を務めています。建築史家、建築家である藤森照信氏の直接の弟子でもあります。研究分野は、アジアの近代建築と都市発展史で、今までに、台湾総督官邸(現台北賓館)や円山別荘(現台北故事館)、新竹神社、嘉義駅、台中州庁、台中市役所といった近代建築や古跡の調査研究プロジェクトを率いました。
台湾の国立成功大学建築研究所で学んでいたとき、東京大学の原広司教授の研究成果に接します。原氏は、建築学と数学の分野を融合する学者で、数学の集合論や位相幾何学といった理論を建築の分析や設計に応用し、世界の先住民集落を調査、比較研究していました。数学科から建築学科に転科していた黄俊銘にとってこのことは、過去に持っていた数学への興味を呼び起こし、学術に対する広い視野と未来の想像を開くことになりました。さらに、当時、東京大学内田研究室の博士課程の学生らが台湾で行っていたフィールドワークに協力した経験により、日本の学者の学術研究における組織性と厳格さを目の当たりにしたことから、日本への留学を決意します。
日本で学ぶに当たっては最初、円滑には行きませんでした。当初、原広司氏の研究室に入るつもりでしたが、先生のアドバイスで、筑波大学の芸術学専攻の博士課程に変更しました。しかし、筑波大学発足に関して起こった派閥争いのあおりで、当初入る予定だった研究室の学生受け入れ枠がなくなり、やむなく、紹介を受けて東京大学生産技術研究所に移り、藤森照信氏の研究室に入りました。
藤森照信氏は、各自の研究の自主性を重んじる学者で、常に自分の研究は自ら行っており、学生が、研究方法やテーマ、文献、理論において開発する能力に重きを置いていました。こうした方法は、他の日本の伝統的な研究室が、組織的に研究テーマを決め、全ての修士、博士の学生の研究成果を利用して、全体的な学術研究の成果を多層的に構築するのとは異なっていました。このような経験により、帰国後の黄俊銘は、研究室の運営に当たって、研究分野の知識体系の構築よりも、学生の潜在能力と特性の育成に力を注ぐようになりました。
博士論文のテーマには、アジアの都市の広域な比較研究を選択。読み込む文献史料は、スペインやポルトガル、オランダ、英国、フランスといった欧州各国のアジアの植民地に関するもので、16世紀から19世紀にわたる時期の資料でした。中には、過去の学者が英語や日本語で執筆した研究成果もあり、欧州の古い文献の内容を一部理解できることもありましたが、幅広い時期の文献の閲読は非常に困難でした。卒業して帰国し、学術研究に身を置いて知ったのは、過去の台湾建築史の研究は、台湾現地のフィールドワークや史料の基礎的な部分に限られたことです。台湾は、オランダ統治時代から現在に至るまで、海外の建築文化の影響を大きく受けており、台湾の建築史に対しては、広い角度からの観察が必要でした。こうしたことから、台湾では、近代建築史において、より広い歴史的な議論がされるようになりました。
1980年代、マネーゲームが追い求められた功利主義の中、黄俊銘の師匠である藤森照信氏は、一般雑誌で、建築や都市の歴史に関する専門的な内容を分かりやすい文体で数多く紹介しました。また、藤森氏は、文学者や芸術家、博物学者など、さまざまな分野の人たちと「路上観察学会」を結成。身の回りに関心を持つことを提唱し、自らの専門性を生かして、社会に影響をもたらしました。こうしたことに深く影響を受けた黄俊銘は帰国前、建築史学者として、理論だけでなく、台湾でいかにして社会に貢献するかを考えました。当時、台湾では古跡保存の動きが始まったばかりの段階だったため、黄俊銘は博士論文のための研究のほかに、日本の古跡保存運動を経験し、また、現場で修復の実務技術を学びました。帰国後は、社会に還元するという抱負を胸に、この専門分野で理論と技術の整理研究を続けると同時に、若い人材の育成も行っています。