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台湾映画の父 | 李行

  • 日付:2021-11-09
台湾映画の父 | 李行

台湾映画の父である李行(リー・シン)は1930年、上海に生まれました。1948年、中国の蘇州国立社会教育学院芸術教育学科戯劇組で学びます。中国の映画監督である費穆(フェイ・ムー)の「小城之春」を見たことで、映画の世界に身を投じることを決意。同年、国共内戦により台湾に移り、台湾師範学院(現国立台湾師範大学)に入学しました。その間、話劇クラブで演者や演出を務め、学外のプロの劇団や映画会社の作品にも出演しました。また、夕刊紙「自立晩報」で文化・芸能担当記者を務めたほか、映画「永不分離」「罌粟花」などにも出演しました。


1958年、李行の監督としてのデビュー作「王哥柳哥遊台湾」は、張方霞、田豊との共同監督によるもので、公開されると大変な人気となり、台湾語のコメディー映画ブームを巻き起こしました。1962年までに、李行は数多くの台湾語映画を撮影しています。


1961年、李行は家族と共に「自立電影公司」を設立し、翌年制作した中国語作品「街頭巷尾」がヒット。李行の台湾語作品時代が幕を閉じる転換点となり、また、監督人生で最初のピークを迎えることになります。この作品の成功により、李行は、中央電影公司の監督に招かれ、同社の15年にも及ぶ「健康写実」路線をけん引しました。


1963年、李行は李嘉と共同で、台湾では初となるカラーの長編ドラマ作品「蚵女」を監督。第11回アジア映画祭(現アジア太平洋映画祭)で最優秀作品賞を獲得し、その後、監督した作品も相次いで著名な賞を受賞しています。「蚵女」と1964年に李行が単独で監督した「養鴨人家」は、健康写実路線の代表作とされています。


1965年、李行は瓊瑤の小説を映画化した「婉君表妹」や「彩雲飛」、「心有千千結」を撮影。次々と好評を博し、瓊瑤作品ブームを巻き起こしました。


李行は、1965年に「養鴨人家」、1972年には「秋決」、1978年にも「汪洋中的一條船」で、中華圏を代表する映画賞「金馬奨(ゴールデン・ホース・アワード)」の最優秀監督賞を受賞しています。台湾映画史において、過去にない3度の受賞で、監督人生の頂点に上り詰めた時期でした。このほか、7作品で金馬奨の最優秀作品賞を受賞しています。


李行は自らが台湾映画の歴史そのものであり、生涯に50本以上の映画を撮影しました。また、両岸(台湾と中国)の映画交流や映画の修復、保存に全力を注ぎました。映画監督の団体「中華民国映画監督協会」が1989年に設立されると、初代理事長に選出され、翌年には、金馬奨を主催する「台北金馬国際映画祭実行委員会」の主席にも就任しました。


また、李行は、訪問団を率いて、中国版アカデミー賞といわれる中国金鶏百花奨に参加。台湾の映画界としては、初めての中国の映画祭への参加でした。台北金馬国際映画祭実行委員会主席在任中の1990年には、中国の映画関係者の金馬奨正式参加を実現に導きました。


1995年の第32回金馬奨で、李行は「終身成就特別賞」を受賞。また、李行工作室を設立し、映画への貢献を続けました。2009年、台北映画祭(台北フィルム・フェスティバル)では、映画事業に人生をささげたことが感謝され、映画産業賞を受賞。同年、李行は、「両岸映画祭」を創設し、台湾と中国の映画人の交流を促進し続けました。2021年、李行は心不全により台北市内で亡くなりました。91歳でした。


40年余りのキャリアをみてみると、李行の作品は、健康写実映画、瓊瑤の恋愛映画、台湾の叙事詩的映画、いずれもブームをリードする存在で、名作ぞろいです。李行監督の作品には、独特の文化的価値と芸術的価値があり、台湾映画に深く影響を及ぼしました。このため、李行は、「台湾映画の父」と呼ばれ、台湾映画史において大変に重要な存在です。