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彫刻の巨匠 | 蒲添生

  • 日付:2021-12-02
彫刻の巨匠 | 蒲添生

「台湾の彫刻の第一人者」と称される芸術家、蒲添生は、台湾における西洋古典彫刻の先駆者です。芸術界では、人物彫刻でその名を広く知られており、塑像で人物の素朴な姿を表現することを得意としていました。台湾近代社会の人物の縮図を浮き彫りにしたほか、伝統的なものからポストモダンまで、彫刻分野での多様な表現を見届けました。


蒲添生は 1912 年、台湾南部・嘉義の芸術一家に生まれました。父の蒲嬰は表装を仕事としており、人物画を描くのも得意でした。また、祖父は画家であり、仏像彫刻師でもありました。蒲添生は幼い頃から父の店に出入りして、自然と絵画に関心を持つようになり、顧客をモデルに描き始めました。1919 年、玉川公学校(現在の嘉義市東区崇文小学校)に入学し、担任だった画家の陳澄波の指導を受け、美術に対する強い興味を抱くようになりました。蒲添生は後に、陳澄波の長女を妻に迎えています。


1928 年、わずか 16 歳の蒲添生は、林玉山らの画家と「春萌画院」を結成し、3 年後には東京の川端画学校に入学して、デッサンを専攻。その後、日本の帝国美術学校(現在の武蔵野美術大学)の日本画科に合格し、後に彫刻科に移りました。1934 年、帝国美術学校を離れて、日本の彫刻界の重鎮である朝倉文夫の私塾で学び、厳格な指導の下、確かな基礎と知識を習得し、創作に対する熱意を身に付けました。1940 年、彫刻作品「海民」が、聖徳太子奉賛美術展で入選しました。日本での彫刻修業を経て台湾に戻ってからは、当時、低迷していた台湾の芸術界で活動し、台湾人画家を主体とした「台陽美術協会」に加入し、彫刻部を設立しました。岳父である陳澄波の推薦を得て、台湾帰国後初の仕事として、蒋介石軍服像と孫文銅像(現在は台北にある中山堂の広場北東部に設置)を制作。台湾では初となる孫文の屋外銅像制作でした。1945 年、第 1 回台湾省全省美術展覧会の審査員を務め、これを数十年続けました。1947 年、鋳銅技術を日本から台湾に導入し、鋳銅工場を設立。1949 年から 1979 年の間、省教育庁の彫刻講習会で講師を務め、国内の彫刻芸術の発展に大きく貢献しました。


蒲添生は一貫して、人体モチーフをベースに、人の体と生命の美についての解釈と表現を追い求めました。14 歳の時、作品「鬥雞」が台湾北部・新竹の展覧会「新竹美展」で大賞を獲得。1947 年には、民国初期の作家である魯迅をモデルとした作品「詩人」を制作しました。しかし、2・28 事件の中、 通報されたため、この作品を庭の草むらに隠していました。1983 年になって、掘り出されたこの作品はフランスのサロンへの出品作品に選ばれ、蒲添生の初期の代表作となっています。1958 年、自然写実的な女性像の彫刻作品「春之光」が、第 1 回日本美術展覧会(日展)で入選。1981 年、人体の理想美を追求した「三美神」を制作しています。1983 年には、作品「詩人」「亭亭玉立」「懐念」がそれぞれ、フランスのサロンで入選。1988 年、ソウル五輪の体操女子の演技を観戦し、着想を得て創作したのが「運動シリーズ」の 10 作品です。このほか、数十の人物塑像からなる「家族シリーズ」は、蒲添生の家族への深い思いが表現されています。「胸像シリーズ」は、多くが政財界の名士や社会的リーダーの人物彫刻で、このシリーズでは、芸術を通して台湾の近代史が示されており、とりわけ歴史的な意味を持っています。1993 年、当時の総統、李登輝氏の要請で、「林靖娟老師紀念像」を制作。この作品完成後の 1996 年、蒲添生はこの世を去りました。


蒲添生は彫刻により、台湾の各時代の政財界や、社会的リーダーなど、多くの人物を記録してきました。蒲添生の手により、こうした人物の姿形や、精神が残されていることで、台湾発展の足跡を知ることができ、こうした作品は台湾の重要な文化財となっています。蒲添生は生涯、50 年以上にわたって彫刻の制作に力を注ぎ、世に送り出した作品は 200 以上。国内で最も多く作品を残し、最も芸術性を備えた人物像彫刻家でもありました。蒲添生はかつて、「私が創作を止めたときは、私の命が尽きるときだ」と述べており、自らその言葉が事実であることを証明しました。