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西門紅楼、日本統治時代の市場がアート空間に

  • 日付:2017-05-15
西門紅楼、日本統治時代の市場がアート空間に

1908年、台北市万華区に建設された西門紅楼は、日本統治時代には八角堂と呼ばれていました。繁華街の西門町に隣接する2階建ての赤れんがの洋館で、各辺が8メートル幅の外壁でできています。1997年に台北市の古跡に指定され、現在では文化クリエイティブやアート空間、ショースペースとして知られるようになりました。


日本による台湾統治が始まった1895年、日本からの多くの移住者に対応するため、台湾総督府は西門付近の空き地を日本人の居住地として整備。1896年には、西門横に簡素な木造の建物を中心とした市場ができ、その地の新移住者の生活必需品を売るようになっていきました。


1907年、台湾総督府は、今までの木造市場に替わる、より充実した市場とするため、有名建築家の近藤十郎に西門市場の建設を委託。1908年、台湾で最初の公設市場として、西門市場が完成しました。


日本統治時代の中後期、西門市場周辺には個人の平屋店舗や屋台が多くできていました。西門城壁が撤去されてからは、台湾総督府がこの場所に、市民の憩いの場として、楕円形の公園を整備。1911年には、西門市場近くに日本人の信仰する稲荷神社が設置されました。


西門市場の入口だった2階建ての洋館が現在の紅楼です。日本統治時代の末期、この市場は、成都路、西寧南路、内江街で囲まれた台形のエリアに広がり、この形が現在まで続いています。戦後、八角楼を接収した上海の商人が、赤れんがでできていたため、西門市場を「紅楼劇場」と改名。1963年になってから、紅楼劇場は映画館となり、名称も「紅楼劇院」または「紅楼」という略称で呼ばれるようになりました。


1997年、内政部が紅楼を第3級古跡に指定し、名称を「西門紅楼」に定めました。西門紅楼は政府による管理で、京劇劇場や映画館となったことがあり、また、劇団を運営する紙風車文教基金会の運営で、劇場として使用されたこともありました。2007年、西門紅楼は台北市文化基金会の運営管理となり、文化クリエイティブ施設となっています。


西門紅楼は2008年、第7回「台北市都市景観大賞」歴史空間活性化賞を受賞。その後、西門紅楼は、文化芸術とアーティストを支援育成するという精神の下、台北西エリアの文化クリエイティブ発展を後押ししています。同年8月、観光客向けとして、八角楼に茶餐庁を誘致し、古跡で飲食する独特の文化を流行らせました。


建物後方部分の十字楼には、台湾のデザイナーの工房・ショップが16軒並んでおり、「16工房」と呼ばれています。また、一番後ろの部分はライブハウスになっており、バンドのライブ活動などが行われています。


紅楼南広場は2000年代以降、台湾の同性愛者と外国人の間で有名な集いの場にもなっており、毎年、年越しイベントが行われています。