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淡水紅毛城及び周辺の歴史建築群

淡水紅毛城及び周辺の歴史建築群

基本説明 

方位:淡水紅毛城及び周辺の歴史建築群は、台湾の西北、淡水河の下流北岸、大屯山群の西側にあり、淡水河を隔てて観音山と向かい合っています。

対象地域:核心地域と緩衝地域の範囲は、淡水から竹囲のエリアで、現在の新北市淡水区とほぼ重なります。東西11.138キロメート、南北14.633キロメート、総面積は70.6565平方キロメートルに及びます。


環境紹介 

淡水は、背後に大屯山を控え、新北市の西北に位置し、淡水河を隔てて八里と向かい合っています。大屯山の相次ぐ噴火によって、溶岩が四方に向かって流れ出した結果、低くてなだらかな坂が一本一本形成されました。淡水に生まれた、まるで5本の指のようなこの丘陵は、俗に「五虎崗」と呼ばれ、淡水河の川岸まで迫っています。高台という優位性を持ち、かつ淡水河沿岸の平地が狭いことから、漢民族の市街地や西洋人の教会、学校などは丘陵や谷間に向かって発展し、変化に富んだ「河港山城」(河港と山地で形成される都市)を形成しました。


淡水から竹囲までのエリアには、メヒルギ、トビハゼ、シオマネキ、水鳥などで構成される典型的な河口干潟の生態系が形成されています。簡単な調査によると、このエリアの動物は主にマングローブに生息しています。そのうち最も特色があるのはカニです。竹囲のマングローブには、カニだけで30種余り生息しています。そのうち最も生息個体数が多いのがシオマネキです。また、見た目が奇妙なトビハゼは、カエルのような頭と、タウナギのような体を持ちます。水中で泳げるだけでなく、泥の上をほふく前進したり、飛び跳ねたり、さらには木をよじ登ることまでできます。毎年春と秋は、水鳥たちがやってくる季節です。南から北へと向かう渡り鳥たちは、マングローブで羽を休め、餌を求め、そして一部はそのままそこで越冬します。これらの水鳥は、サギやシギの仲間が中心となっています。


淡水のこの河口干潟の生態系を植物資源の方面から見ると、水の塩分濃度が周期的に変化することから、メヒルギが主要な樹種となっています。メヒルギはマングローブ樹種の常緑低木です。根元が膨らんで板根となり、幹からは多数の気根が伸びて根を支えています。胎生種子を落とす植物で、土を固め、高潮を食い止め、土壌を保つ機能を有します。それがゆえに苦境を克服し、繁殖してますます濃密な樹林を作り出しています。竹囲の河口部の沼地には、世界最大のメヒルギの原生林が広がっています。一歩足を踏み入れると、多種多様なカニ、水鳥、トビハゼの生息が確認できる豊富な生態観察教室となっています。


淡水地域には現在、33カ所の史跡や歴史的建造物がありますが、MRT淡水駅から滬尾砲台(こびほうだい)までのわずか1キロメートルのエリアに、その28カ所が含まれています。沿海にはまず、商業に関連する施設である海関(税関)、洋行(貿易会社)、海防のためのふ頭、飛行場(具体的には海関ふ頭、旧英商嘉士洋行倉庫(シェル倉庫)、淡水水上飛行場)などがあります。高台には、国境警備のために作られた紅毛城(清代の英国領事官邸を含む)、滬尾砲台、それから旧清淡水関税務司官邸や馬偕故居(マッカイ牧師の生前の住居)などがあります。さらに進むと理学堂大書院、淡水女学校、婦学堂など教育関連の施設があり、異なる植民統治時代のそれぞれの勢力分布を見て取ることができます。


紅毛城:オランダ人は1642年、スペインの勢力を駆逐後、スペイン人が残したセント・ドミニカ城を改築しました。オランダ人は、この城にヨーロッパの「城塞」形式を取り入れました。城壁の内側はれんが造り、外側は石造りで、大砲による攻撃にも耐えられるようになっています。戸や窓は極めて小さく、要塞としての閉鎖性が見て取れます。紅毛城の東側には清代の「英国領事官邸」があります。赤れんが造りの、アーケードを有する洋館です。英国人が設計したものを、中国人の職人がアモイから運んできた赤れんがを使って作り上げました。アーケードの外観は、19世紀に流行した「コロニアル様式」に属するものです。この建築様式は、淡水の高温多湿、多雨の気候に非常に適したものでした。官邸からは遠くに観音山や淡水河を眺めることができ、極めて素晴らしい環境です。


旧清淡水関税務司官邸(通称「小白宮」):淡水開港後、各国の商船が相次いで淡水にやってきました。1861年、清は道員(官職)として区天民を派遣し、淡水に税関を設立し、税関業務に当たらせました。現在、淡水国中(中学校)前にある白い洋館が、税務司(税関役人)の官邸です。1875年に着工したもので、現在の姿は1930年代に改築したものです。スペイン風白亜回廊様式の独立家屋で、周囲を回廊が囲んでいます。主要な構造は赤れんが造りですが、建築物の表面には石灰が塗られていて、基礎が高く、屋根に勾配があり、底部には通気窓が備えられています。淡水の住民からは「小白宮」と呼ばれています。


海関碼頭(税関ふ頭):現在の住所は新北市淡水区中正路259号です。紅毛城から坂を下ったやや低い台地にあります。視界は良好で、遠くに淡水河の河口と観渡大橋を見渡せ、四方の景観を一望できます。この海関碼頭は、台湾近代史で長く重要な役割を演じてきました。200メートルの浅いふ頭で、観音石を積み重ね、精緻な工法で作り上げています。また、長い歴史を持つ港務倉庫が2棟あり、いずれも淡水に税関があった時代の証人となっています。


滬尾偕医館:マッカイ(George Leslie MacKay)牧師は1844年、英領カナダのオンタリオ(Ontario)州オックスフォード郡に生まれました。1872年、船に乗って淡水へ渡り、宣教活動を開始しました。マッカイ牧師は淡水到着後、その住居で診療を行って西洋薬を処方し、当時の住民を病気の苦しみから救いました。マッカイ牧師が持ち込んだキニーネは、マラリアの特効薬として大変歓迎され、受診に訪れる患者は日に日に増えていきました。1873年、住居とは別のところに場所を借りて診療所とし、「滬尾医館」と名付けました。1879年、マッカイ牧師は、同じマッカイ姓の米国人船長の未亡人から2500ドルの資金援助を受け、現在の淡水区馬偕街に新しい診療所を建設しました。ここを「滬尾偕医館」と名付け、マッカイ船長の未亡人による善意を顕彰しました。「滬尾偕医館」の建築物は、中洋折衷の特色を有し、中国式のビン南瓦を用いた屋根と、西洋のアーチ型をした扉や窓を備え持ちます。現在は新北市の市定古跡に指定され、台湾における西洋医学発祥の地とされています。(ビン=もんがまえに虫)


理学堂大書院(牛津学堂):1880年末、カナダへ帰国したマッカイ牧師は、各地に招かれて講演を行い、台湾での宣教経験を報告しました。マッカイ牧師は、淡水に学校を設立し、教会と社会に必要な人材を育成することを提案しました。オックスフォード郡の住民たちは直ちにこの提案に賛同し、マッカイ牧師が台湾に戻って学校を建設できるよう寄付を行いました。台湾に戻ったマッカイ牧師は、現在の淡水中学の西側に土地を購入し、福建省から取り寄せたれんがや建材を使い、自ら設計と現場監督を担当しました。1882年7月、この赤れんがの建築物は落成し、「理学堂大書院」と名付けられました。英語名はOxford College(中国語で表記すると牛津学堂)と名付け、カナダ・オックスフォード郡の住民の厚意を称えました。建築物の各所に、中洋折衷の色彩が見て取れるほか、当時の時代や社会的背景が反映されています。国定古跡に指定されています。


淡江中学:淡江中学は1914年に創設されました。元々は基督長老教会が中学生を育成するための教会学校でした。校舎の主な特色は、コロニアル様式の建築物によって構成されていることで、現在に至るまで100年前の風貌を維持しています。敷地内には「淡水女学校(Tamsui Girl's School;1884)」「婦学堂(Women's School;1910)」「八角塔」「馬偕墓園(マッカイ牧師墓地)」「外僑墓園(外国人墓地)」などがあり、いずれも極めて豊富な歴史的意義と芸術的価値を有しています。中でも「八角塔」は最も有名です。1925年に完成したもので、赤れんが、台湾瓦、彩釉れんがなど台湾特有の建材を使用しています。三合院(台湾の伝統的家屋)に似た建築物に、中国と西洋の異なる表現手法を融合させたもので、日本統治時代初期の宣教師が設計した作品としては、極めて突出したものです。


淡水紅毛城及び周辺の歴史建築群をフィリピンのバロック様式教会群と比較すると、淡水は背後にある大屯山によって東北の季節風(モンスーン)が遮られるため、風速がやや落ち、船舶の停泊に適しています。また、川岸が内陸側にくぼんだところにあり、水深もやや深いため、比較的大きな船舶を停泊させることができます。このような優位性を持った立地条件であったがゆえ、淡水はさまざまな勢力が奪い合う対象となりました。

このため17世紀、ヨーロッパで海洋国家が台頭し、世界各地で植民地を広げる中、オランダとスペインが前後して台湾にやってきて、オランダは台湾南部(台南)を、スペインは台湾北部(淡水)を占領しました。スペインは淡水を貿易の中継地や物資調達のための植民地とみなし、1629年、軍事要塞としてセント・ドミニカ城(Fort San Domingo)を築きました。ここは平埔族(平地に住む先住民族)や漢民族を統治するための拠点にもなりました。スペイン人は宣教のため、淡水に教会を建て、ここを宣教の拠点としました。淡水占領から12年後、スペインはオランダの勢力に駆逐されました。オランダは、台湾統治を強化するため、ヨーロッパの「城塞」形式を取り入れ、セント・ドミニカ城を改築し、より強固なアントニー要塞(Fort Antonio)としました。淡水はこうして、台湾の物産をオランダへ輸出するための重要な港湾となりました。


19世紀末、清の勢力が衰え、英仏連合軍との戦いに負けると、淡水は外国との貿易を行うため、開港することになりました。ヨーロッパ諸国の商船が次々にやってくるようになり、淡水は国際貿易港となりました。現在の淡水区三民街から紅毛城に至るまでの川沿いや高台のエリアには、ふ頭、貿易会社、教会、学校、官邸、洋館が建ち並んでいました。当時、いかに商業が発展し、西洋文化の深い影響を受けていたかを想像することができるでしょう。台湾が経てきた歴史の中で、淡水がかつて有していた生命力は非常に特殊なものと言えます。この歴史と記憶は、しっかりと保存する価値があるでしょう。


フィリピンのバロック様式教会群は、フィリピン・ルソン島のパオアイ、サンタ・マリア、マニラ、パナイ島ミアガオにあります。1993年に世界文化遺産に登録されました。フィリピンは、スペインによる植民統治を300年間受けてきました。このため、文化面でもスペインから大きな影響を受けています。しかし、これらの地方にある教会は、スペインのスタイルを完全にコピーしたものではありません。長方平面のスタイルを採用し、側廊も交差廊もない構造です。これらの設計に加え、強固なバットレス(控え壁)、天井の低い身廊などは、いずれもフィリピンにある教会の特徴です。


ルソン島北イロコス州のパオアイ教会を例に見てみましょう。ここにあるサン・アグスティン大聖堂は、珊瑚とれんがで修築された厚さ1.7メートルの主壁がありますが、バットレスが外壁より5メートル突き出し、その頂部に小さなタワーがついています。この建築様式は、スペインとフィリピンの混合体です。淡水建築群とフィリピンのバロック様式教会群は、どちらも植民統治の影響を受けながら、宗主国のものをそのまま移植したのではなく、現地の建材を利用して、宗主国とは異なる建築様式を作り出しています。

淡水建築群の最大の特徴は、淡水が受けてきた植民統治の歴史の流れを見ることができるという点です。スペイン、オランダによる占領、漢民族による開墾、開港、通商、そして日本による統治を経た淡水の歴史建築はさまざまな風格を呈し、淡水の歴史を今に伝えています。その唯一無二の特色は、フィリピンのバロック様式教会群よりも精彩に富み、世界遺産登録の可能性を秘めています。


選出理由 

淡水は元々平埔族(平地に住む先住民族)に分類されるケタガラン族が生活していました。その後、漢民族による開墾や、開港と通商に伴って西洋文化が台湾に入ってくると、西洋の宗教、建築、医療、教育などが淡水を拠点として台湾各地へと広がっていきました。特に建築と人の活動は深い影響を受けました。淡水の歴史エリアでは、特殊な建築様式を見ることができます。川沿いには商業や輸送に関する施設があり、行政や防衛に関する施設は高台に、そして教育や宗教に関する施設は後方の山頂部分に設置されました。こうして生まれた特殊な集落スタイルは、世界遺産登録基準第2項に合致しています。


淡水は、ヨーロッパの宣教師、医師、教育者、外交官、商人らと強い関連性があります。それを実質的に証明するのが淡水地域に生まれたコロニアル様式の建築物です。それには学校、城塞、領事館、ヨーロッパの商人、そして地元の商人たちによって作られた都市形態を含みます。この集落と貿易港の戦略的地位は、それぞれの統治権力が世界に影響する決定を下すとともに、この地域の思考、信仰、伝統にも影響を与えてきたことを見守っています。特にヨーロッパ人と現地住民の活動空間にあった顕著な隔たりによって作り出されたこの町の風格は、かつてこの町に住んでいた人々の生活スタイルと規範を伝える有形記憶でもあり、世界遺産登録基準第6項に合致しています。