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台展三少年 | 陳進

  • 日付:2018-05-28
台展三少年 | 陳進

陳進は、日本統治時代から活躍する女性画家の第一人者です。東洋と西洋の美術を融合し、緻密で品のある日本画の技法で人物画を描き、台湾文化を盛り上げました。独自のスタイルを発展させて、台湾の女性芸術家の草分けとなり、1996年には、行政院文化奨を受賞。上流家庭の出身で、のちに「才媛画家の代表的人物」と称されました。

 

1907年に台湾北部の新竹に生まれた陳進は、光復(日本統治時代の終焉)前の著名な画家では唯一の女性でした。その美術の才能は、中学のとき、日本人美術教師であった画家の郷原古統に見いだされ、卒業後は、師の勧めもあり、東京の女子美術学校(現在の女子美術大学)に進みます。日本で絵の勉強を始めて間もなく、陳進は、台湾、日本、両地の画壇で頭角を現します。1927年、陳進は、1年時に制作した3作品「姿」「罌粟」「朝」を、第1回台湾美術展覧会(台展)東洋画部に出品し、いずれも入選を果たします。共に入選した郭雪湖、林玉山の3人は20歳。このとき、台展東洋画で入選した92人の画家のうち、台湾人はこの3人のみだったため、陳進らは「台展三少年」と呼ばれました。

 

1927年から1936年、陳進の絵画は台展に10年連続で入選します。その後は、主催者側の審査や鑑査なしで出品できる「無鑑査画家」という栄誉を得ます。陳進は、「作画は、私の天職」とはっきり述べています。日本統治時代の台湾では、画家の社会的地位が非常に高く、絵画は、台湾人が自信を得る最も優れた方法の一つとなっていました。陳進の絵は、台湾で賞を獲得しただけでなく、1934年には、姉の陳新をモデルとして制作した「合奏」が、日本の第15回帝国美術院展覧会(帝展)に入選。帝展に入選した初の台湾人女性画家となりました。陳進は日本で学んだ後、台湾に戻って、台湾南部の屏東高等女学校で教鞭をとり、台湾の若者に学んだことを伝えます。教育の傍ら、陳進はしばしば、近隣の先住民集落へスケッチに出掛け、先住民を題材とした作品を多く描きます。有名な作品には「三地門社之女」があり、非常に細やかで美しく、感情豊かな作風となっています。

 

1945年以降、国民党政権が起こした「正統国画」論争により、台湾省全省美術展覧会(省展)では、東洋画部が開催されないことが10年あり、多くの画家は、創作の媒体を変更しました。陳進の作品は、中国画家や芸術評論家から多くの疑問が呈されましたが、陳進が、これによって水墨画に変更することはなく、最も得意とする日本画を描くことを貫きました。陳進の絵を細かに見ると、その絵はまさに、陳進の一生であるように見えます。陳進の絵の女性は、彼女の理想の台湾女性であり、端正で優雅ながら、全く弱々しいところがなく、眼差しは勇敢で力強いように見えます。

 

陳進の一生は、台湾の近代美術史そのものです。陳進は常に心を込めて描き続け、日本の芸術評論家が、「南海の天才女性」と称しています。陳進は、日本画、絵画により、巧みに自分の理念を表現し、古い時代に、現代の台湾女性の理性と自立を表現した台湾女性の第一人者と言っていいでしょう。陳進は晩年、体調が思わしくなく、米国で医師として働いていた息子が台湾に戻って看病していましたが、91歳でこの世を去りました。