メインのコンテンツブロックにジャンプします

台展三少年 | 林玉山

  • 日付:2018-09-03
台展三少年 | 林玉山

林玉山は、台湾南部の嘉義出身の画家で、本名は林金水。動物、特に竜と虎を得意とし、日本画と水墨画の作品が有名です。1990年には第15回国家文芸特別貢献奨を受賞しています。林玉山の作品「蓮池」は、文化部文化資産局が2015年、中華民国国宝に認定し、台湾の近代画家の作品としては初の国宝作品となりました。


1907年4月1日生まれの林玉山は、父が民間の画家兼表具師だったため、学校に上がる前から、父について自然と作画を身に付けていきました。1922年、日本人画家の伊阪旭江について絵を学び始め、伊阪旭江と、嘉義出身の画家である陳澄波の後押しで、1926年には日本へ渡り、東京にある川端画学校の洋画部に進学、専門的な美術教育を受けるようになります。


1年後の夏休み、林玉山は台湾に帰省した際、第1回台湾美術展覧会(台展)に出品。この時、東洋画部で、同じ台湾人画家の郭雪湖、陳進とともに入選して、「台展三少年」と呼ばれるようになり、画壇で頭角を現しました。林玉山は、1928年の第2回台展でも入選を果たします。1930年の第4回台展に「蓮池」を出品し、特選を受賞しています。1934年には台湾日日新報で初の個展を開催。1935年に再度、日本に渡って、京都にある画塾、東丘社に入り、名古屋の美術展に出品。この頃の林玉山は既に作風を確立していました。


「蓮池」の創作に当たって林玉山は、朝日が昇るわずかな時間をその場でスケッチするためだけに、故郷である嘉義の牛稠山にある蓮花池のほとりで徹夜したといいます。描かれている蓮の花はきらめく光の中、美しく咲き誇っており、林玉山の代表作となっています。


林玉山は自身の画歴について、2度の変化の過程があったと語っています。それはいずれも青壮年期で、1度目は、川端画学校を終えて台湾に戻った後、詩人の頼恵川について学んだことで、写生派から、文人画への理解を深める契機となったこと。そして、京都時代の伝統的な作品を模写した時期。模写の対象は、中国宋時代の作品でした。漢学詩文の教養は、林玉山が後に、伝統的な中国絵画と精神的な融合を深めることにつながっています。


日本統治時代が終わって間もなく、林玉山は、嘉義中学で美術教師となり、1951年には、台湾師範大学美術学科の教員に転じ、定年まで勤めました。林玉山の作品には、台湾のイメージが満ちあふれており、農業が中心だった時期の台湾を象徴する日本画で描かれた黄牛は、台湾の実直で飾り気のない風土がよく表現されています。また、写生という概念は、林玉山にとって常に創作の源であり、提唱していた信念でもありました。作品中での実践だけでなく、文章でも常に言及していました。林玉山は、芸術面での成功でも、人格の面でも、人々の尊敬を集め、教え子は各地に広がり、その影響は計り知れません。

 

林玉山は晩年、自身が長年大切にしてきた作品を、台北市立美術館、国立台湾美術館、高雄市立美術館に寄贈しています。自身が終生愛を注いだ作品を台湾に捧げたのです。林玉山は2004年、97歳でこの世を去りました。彼の死後、林玉山の家族も、多くの作品を国立台湾美術館に寄贈しています。この中には、台湾の国宝「蓮池」の貴重なスケッチ画も含まれています。