メインのコンテンツブロックにジャンプします

台湾出身の東洋音楽家 | 江文也

  • 日付:2019-09-12
台湾出身の東洋音楽家 | 江文也

江文也は1910年、台湾北部で生まれ、6歳の時、両親と共に中国・福建省アモイに移住、1923年には日本の中学に進学します。卒業後は、東京の武蔵高等工科学校電気科に学びます。音楽をこよなく愛する江は、本格的な音楽教育を受けるため、夜間に上野の音楽学校に通い、声楽と作曲を学びました。


1930年代、江文也は声楽で頭角を現すと、作曲でも実力を示し、さまざまな音楽コンクールで相次ぎ優勝。1934年には、管弦楽曲「白鷺への幻想」で日本音楽コンクール作曲部門の2位、その後、日本で開催された作曲コンクールで4年連続の受賞を果たしています。日本の作曲界で確固とした地位を築いた江文也は当時、台湾から日本に渡った音楽家の中で、最も光り輝いていました。


1936年のベルリン五輪の芸術競技において、江文也は管弦楽曲「台湾舞曲」を出品して、受賞。初めて五輪メダルを獲得した台湾人となり、アジア人としても、初の国際的な受賞を果たした音楽家となりました。1938年、江文也は北京で教職に就き、仕事の合間に「孔廟大晟楽章」を作曲。音楽を通して、自身の儒学や東洋の宗教思想を表現しました。


日本が敗戦した1945年の冬、江文也は国民政府から「漢奸(裏切り者の意味)」として逮捕されます。日本籍を持っていた江が以前、日本政府の求めに応じて、日本の軍国主義宣伝のための楽曲「東亜民族行進曲」を作ったためで、懲役10カ月の刑を受けます。釈放後、江は創作を宗教音楽に向け、「聖詠歌曲集」などの作品を手掛けます。


中国大陸では1957年から政治運動が活発になり、反右派闘争により、教育や演奏、出版の資格を剥奪される中、江文也は創作を続けました。1966年に文化大革命が始まると、江は、ひどく非難されたあげく農山村に送られ、思想改造のための労働に何年も従事させられました。


1975年からは、日本滞在時に弟と台湾の山岳地帯で収集した台湾民謡の整理に取り組み、それらをオーケストラが伴奏する声楽曲に編曲しました。1978年、江文也は名誉回復され、教職に復帰。晩年、生活が安定していたときには交響曲「阿里山的歌声」を作曲していました。しかし、その創作中、病気により体が不自由な時期が長く続き、この曲が未完の最後の作品となりました。


江文也が世を去る2年前の1981年、彼の名声は海外華僑のコミュニティーから台湾に伝わり、江文也に関する記事が台湾のさまざまな雑誌などに発表され、作品は中国でも放送されました。


台湾で生まれ、日本で育ち、中国で亡くなった江文也。東アジア各国を流転し、人生の後半は政治の波に翻弄されて、苦難を強いられた激動の歳月の中で、彼は素晴らしく、貴重な音楽作品を残し、後世の人々の心を動かしています。